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翌日になっても、あのクリニックでの出来事が頭を離れなかった。あれは夢だったのか、現実だったのか?その区別も私の中ではひどく曖昧だった。
私は夢遊病者のようにふわふわとした感覚の中に居た。仕事はまるで手につかず、気が付けば麻里子との出来事のことばかりを考えていた。
私は、あの体験を再び味わってみたいと強く思った。しかしそれと同時に、あの場所に行くのは躊躇われもした。それは、自分自身がこれまで守ってきた何かが、もっと言えば、私が私であることの根幹が揺さぶられているように思えたからだった。どうやら、私は触れてはいけないものに触れてしまったらしかった。
私は沸き上がる思いを何度も打ち消そうとした。しかし、何度打ち消けそうとしても、麻里子の顔が頭の中に浮んだ。あの髪、あの瞳、あの声…。
そして、結局はそれに抗うことができず、自然とあの場所へと足が向いた。
同じような葛藤はその次の日も続いた。そして、いつも麻里子に会いたいという思いが勝り、あの場所へ行くのであった。その次の日も、その次の日も。気が付けば、それは私の中で日課のようになっていた。私はこの時ほど自らの存在がはかなく危うげなものになりつつあるのを感じたことはなかった。私は自分自身がこの世界にたよりなくたゆたう陽炎であるかのように思えた。
クリニックに行けば、受付の女の子と女医がいつも優しく迎えてくれた。私は彼女たちとも少しずつ親密になっていった。
そして、彼女たちの案内で私は夢の世界へ旅立った。もちろん、それは麻里子との逢瀬を重ねるためだった。彼女と会うときは決まって彼女とそっくりな姿になっていた。それは彼女が決めた流儀であるらしかった。
彼女との秘め事は、ときに激しく、ときに優雅なものであった。そして、唇を重ねる度に、彼女と同化して私というものが無くなってゆくような危うくも甘美な感覚を感じていた。
そして、一時の愉悦を味わったあとは、彼女と実に多くのことを語りあった。私は彼女の前では心まで丸裸であった。私が何かを語ろうとしなくても、彼女は私の考えていることをすべて正確に理解し、それに共感の手を差し伸べてくれた。最初のうちは、私自身の最も深いところにある秘部を思うがまま覗かれているような気恥ずかしさがあったが、次第にそれは心地よさと安らぎへと変化していった。気が付けば、私はそのような彼女に心惹かれていた。
彼女への思いとともに、私の中で、次第に夢の世界の重みが増していった。時には夢の世界のほうが真の現実ではないかと思うようになったほどだった。すべてが形骸化したような世界と、この濃密な感情に溢れた世界とではつり合いが取れないではないか?私はそう思うようになっていった。
そんなある日にことだった。いつもと同じようにクリニックの旅立ちの儀式を経て、麻里子との情事を楽しんだ。
そして、私たちは長らくその余韻を味わっていた。
事が終わった後、私たちは柔らかな尻を二つ並べるようにベッドに座り、お互いの手を重ねて、その温もりを確かめながら、事の余韻を楽しんでいた。
「あなた、今日はとってもノッてたわよ」と麻里子が言った。
「そうかな?」
私は頬を赤らめながら言った。
「照れてるの?かわいい。心まで女の子になってきたんじゃない?」彼女が私をからかうように言った。
「そんなんじゃないよ」
そう言いながらも、私はまんざらでもなかった。彼女の言うとおり、心までもが女にちかづいていたのかもしれなかった。
「ところで」と彼女は話を切り出した。「私たち、これで会うのは何回目かしら?」
「よく覚えていないな。ずっと昔からいるみたいだ」と私は答えた。
「ここは気に入ってくれたかしら」
「ああ、とっても」
「ここは私とあなただけの世界。ずっと居ていいのよ」
「そんなことができたら夢のようだけど。あっ、そうだった。僕は夢を見ているんだったね」
「夢と現実なんて区別する必要はないわ。あなたが真実だと思ったものが真実よ」
私は元の世界に帰らなければならなかった。退屈ではあるが、そこが私の生きる唯一の世界であった。私は別れの挨拶を言うことにした。
「今日は楽しかったよ。また明日来てもいいかな?」
「ごめんなさい。実は、セックスの最中にあなたにまた別の魔法をかけたの」
「別の魔法って?」
「私たちがずっと一緒にいられる魔法をね。これから、私たちは新しい世界に行って、ずっとそこでくらすの」
「ずっとって、どれぐらい?」
「ずっとはずっとよ。つまり永遠に」
彼女の眼は真剣だった。冗談を言っているのではないらしい。
「永遠に?」
「そう永遠によ」
「それは、それはもう僕が元の世界に戻れないってこと?」と私は彼女に問いただした。
「そうよ」と彼女は冷淡に答えた。「あなたはもう目覚めない。これから行く新しい世界で私とずっと愛し合って生きていくの。同じ姿で。歳も取らずに」
「何を言っているんだい?冗談だろ?」と私は彼女に尋ねた。
「冗談なんかじゃないわ。私、さっきあなたの中に出しちゃったでしょ?実は特別なお薬を飲んいたのよ、あなた。さっきの口移しのワインにはその成分が入っていたの」
ここは彼女が自由にコントロールできる世界だ。彼女が言うこともあながち嘘ではないかもしれない。
私は言葉に詰まった。どうやら取り返しがつかないことになったらしい。少しずつ狼狽が胸にこみ上げてきた。
「どうして…」
私はそれ以上何も言えなかった。本当に当惑したときは言葉がろくに出なくなるものらしかった。私は醒めない夢の中で心の中に巻き起こりつつある感情の嵐にただ戦慄するしかなかった。
私は落ち着いて気持ちを整理しようとした。しかしそれは出来なかった。
そして自分の意思とは無関係に、元の世界の風景が次々と溢れるように頭の中に浮かんできた。私はそこでくだらないものたちに取り囲まれて生きていたのかもしれない。でも、それなりに彼らと上手くやっていたし、愛着も感じていた。それが、たった今、何の前置きもなく失われてしまったのだ。正確にいうと失われてしまったのではなく、誰かが奪ってしまったのだった。それを奪ったのは、そう、私の目の前にいる麻里子であった。私の困惑は次第に彼女への怒りへと変化していった。
「君はなんてことをしてくれたんだ」と私は声にならない声で彼女に言った。
「これが、あなたを救う唯一の方法よ」と彼女は言った。
「唯一の方法?何を言っているんだ。たとえそうであっても、僕はそんなことは望んでいなかった」と私はこみ上げる感情を抑えながらそう言った。
彼女にも憮然とした表情が滲み始めていた。
「何よ、あなたはどうせ、あの世界に辟易してたんでしょ?あなたの望みを叶えてあげたのよ。感謝してもらいたいぐらいよ」と彼女は言って、涙を浮かべた目で私をにらんだ。
「もとに戻してくれ」と私は彼女に言った。
「それはできないわ」と彼女は冷たく答えた。
「ふざけるな。元に戻せ」
「嫌よ」
「戻せよ!」
「絶対嫌よ!何よ!今まで人のことを散々無視しておいて、いい気味だわ、この雌犬」
「何だと。もういっぺん言ってみろ」
「ああ、何回でも言ってやるわよ。この雌犬」
次の瞬間、パチンという大きな音ともに私の手のひらに熱い衝撃が走った。私は思わず彼女の頬を平手打ちしたらしい。
「何すんのよ!」
再び肉を叩く大きな音がした。彼女も負けずと私の頬を打ったのだった。
「このクソ女!」
私も負けじと張り手を応酬した。そして、私たちは髪を振り乱して金切声を上げながらお互いに飛びかかった。
そして、取っ組み合いの喧嘩となった。
彼女は私に馬乗りとなり私の体を両腕で上から押し付けたが、私は彼女の体を全力で押しのけ、今度は逆に彼女の上に跨った。私は股間にある彼女の首に手を掛けて締め上げた。彼女は苦しさに顔を紅潮させて苦悶した。やがて、彼女の瞳が大きく見開かれたままになり、脱力したような表情を浮かべた。
私は、ふと我に返った。私はすぐさま彼女の首から手を離した。
長い嗚咽の後、彼女は大きな声を上げて泣き出した。
「大好きだったに…。ずっと一緒に居たかったのに…。ただ、一緒に居たかったのに…。それなのに、あなたは…。あなたは…」
重々しい空気が私たちを包んだ。私が彼女の上から離れた後も、彼女は私を背にしてしばらくすすり泣いていた。
「もういい。帰って」と泣き止んだ彼女は私に小さく言った。
私はなす術もなく、彼女のそばに座り込んでいた。すると、次第に周りの風景がぼんやりとし始め、次第に色が白んでいき、最後には、視界が一面真っ白になった。
そして、私は目覚めた。マスクとヘッドホンを外すと、目の前に夏木医師がいた。そこは見慣れたクリニック診察室だった。
私は複雑な感情のなかで、硬いベッドの感触に身を委ねていた。
「何かあったの?」と彼女は私に問いかけた。
「今日は少し怖い思いをしたもんで」と私は言った。「現実世界に戻れなくなる夢を見ていたんです。二度と帰れないのかと思いました」
「永遠に戻れないと言っても、それはあなたがそれを真に望むならという条件つきよ。あなたが拒絶すればいつでも帰ってこれるわ」
「どうやら、そうみたいですね」
「夢の世界であったことは本当にそれだけ?」と彼女はさらに問いかけた。私の表情に安堵感以外のものがあるのを見逃さなかったようだ。
「ええ、それだけです」と私はそう答えた。
もちろん嘘だった。私は先ほどの出来事のことを誰にも言いたくはなかった。また、仮に言ったとしても、彼女に理解してもらえる自信はなかった。
「あら、そう。ごめんなさいね、変なこと聞いちゃって。いいわ、言わなくても」
「ごめんなさい」と私は小さな声で彼女に謝った。
「まだ少し時間があるわ。少し休んで、もう一度やってみる?」と彼女は私に再度の夢見を勧めた。
「いえ、今日はこれまでにします」
私はそんな気にはなれなかった。とにかく、気持ちの整理をしたかった。
しばらく休んで、私はクリニックを後にした。そして、夏の夜風に当たりながら、人通りがまばらとなった街を歩いた。
私がしたことは正しかったのだろうか?ふと、そんな思いが頭をよぎった。
私はしばらくそれに考えを委ねた。この世界にはまだ未練がある。しかし、この世界は私のことをどう見ているのだろうか?私の存在を異質な要素だと思ってないないだろうか?もはや私には寸土の居場所も与えるのが惜しいと思ってはいないだろうか?だとしたら、この世界を棄てて、彼女とともに新しい世界で生きることを選ぶべきだったのではないだろうか?いや、そうではない。それは間違っている。なぜかは上手く言えないが何かが間違っている。この世界には些末で矮小なものかもしれないが私が生きてきた痕跡がある。それを失うのは、私が消滅してしまうことと同じだ。だから、麻里子の世界には行けない。だが、このまま彼女と別れてしまうのは嫌だ。堪らなく嫌だ。別れるにしても、お互い納得してからにすべきだ。
私は、とにかく麻里子に謝らなければならないと思った。たしかに、彼女とともに暮らすという提案を受け入れることができなかった。しかし、強引ではあれ、あれは彼女なりの愛なのだと思った。彼女の愛には理解を示さなければならない。それが、誠意というものだ。
その夜、彼女のことばかりが頭の中をめぐり、私は眠ることができなかった。気が付けば夜が明けていた。
私はまた、ひまわりクリニックに行って夢見を試みた。しかし、麻里子のもとへは行くことはできなかった。いつものように、診察ベッドに横になり、夏木医師に施術してもらったが、ただ頭の中がぼんやりとなるだけで、夢に落ちる前の不思議な感覚は生じる気配がなかった。私はあきらめて、体を起こした。そして、首を横に振った。
彼女は導入音声機材のスイッチを切った。
「いつもの落ちる感覚がないんです」と私はマスクとヘッドホンを外しながら言った。
「おかしいわね」と夏木医師は言った。「昨日あなたは怖い思いをしたって言ってたけど、もしかしたら、原因はそのことに関係しているのかもね。あなたの顕在意識が防衛反応で潜在意識を拒否しているとか、あるいはその逆で、過剰防衛している顕在意識を潜在意識のほうが排除しているとか」
私が彼女のことを受け入れられなかったのだから、当然といえば当然であった。
「もう会えないんでしょうか?」と私は彼女に尋ねた。
「会えないって?」と彼女は怪訝そうに尋ね返した。そう言えば、私は夢の中の出来事を彼女に話したことはなかった。夢の中である女と会っていたことも、私自身がその女とそっくりな姿に変身していたことも、そして、その女との秘め事も。迂闊な質問だった。そして、それに対する彼女の反応はきわめて正当だった。
「夢の世界で誰かに会っていたのね」としばらく間を置いて彼女は言った。
「そうです」と私は答えた。成り行きから認めるしかなかったからだ。
「その人はあなたの恋人か何か?」
「そうゆうわけではありません」
「でも、その人を愛してしまったんじゃないの?」
「わかりません。でもこのまま二度と会えないのは嫌なんです」
そう言った後、私は自分自身の言葉に少し驚いた。私が強く自らの意志を伝えるのは稀だったからである。少なくとも、大人になってからはそういうことをした記憶はなかった。
「まあ、落ち着いて」と彼女は私をなだめながら言った。「このところ、あなたは毎日のように夢の世界に行っていたから、すこし脳が疲れてるんじゃないかしら。今日のところはよく休んで、また明日やってみたら?」
私はその日はここで止めることにした。
しかし、次の日も、その次の日もあの女に会うことはできなかった。
私は、すでに手遅れであることを理解した。私はひまわりクリニックに行くのを止めた。