7. 「予言」 小説『レイト・サマー』第3章(後編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 現実の日々は、私のごく個人的な出来事とは関係なく過ぎていった。私は、麻里子と出会う前のように、職場で淡々と仕事をこなし、帰宅し、眠る日々を過ごした。そして、時折、彼女のことを思った。彼女がいたずらなことを言うときの、その言葉とは裏腹に包み込むようなやさしさを見せる表情を、その澄んだ瞳のことを、そして、その胸のぬくまりを。

いかに甘美であったとしても、彼女とのことは所詮、ひと夏の些細な思い出だ。子供の頃、親に連れられて行ったディズニーランドの記憶と同種のものに過ぎない。いずれは思い出すことも稀になる運命にあるのだ。私の人生に如何ほどの影響を及ぼすものではない。私は、彼女のことが頭に浮かぶ度に、私自身のその思念を冷遇した。

 しかし、私の再三の拒否にもかかわらず、それは、振り払う度に彼女への思いは強固になっていくようだった。また、知らず知らずのうちに、その追想にふける時間が長くなった。

 

 八月の終わりが近いある日曜日、私は遅い夏休みを取っていた。

 その日は一人で部屋にいた。手短に遅い朝食を終え、一週間ぶりに洗濯機を回していた。休日の午前中に洗濯をする。それが私の休日のルールである。洗剤を投入して洗濯機のスイッチを入れた後、わたしは、近場のドラッグストアで買ってきた安物のインスタントコーヒーを淹れ、それをゆっくりと口に流し込んだ。平板な苦みが舌の上に広がる。まるで特徴のない味だ。しかし、私はこれでもただのお湯よりいくらか楽しめた。私は安上がりに出来ている人間らしかった。

 私は部屋を見回した。何ということはない。北向き窓の、昼でも薄暗い築25年の独居用賃貸アパートの一室だった。こここでの暮らしは大学生の頃以来であった。通常、私と同年代の独り者ならば、もう少し広いところに住むものである。しかし、私はそんなところに住みたいと思ったことはなかった。この部屋はもはや私の一部となっていると言ってよいほど、私はここでの暮らしに馴染み過ぎているのだ。

この部屋の築年数のわりには白くきれいな壁が私を取り囲んでいた。壁が白いのは私が煙草を吸わないからだった。使い古しであるが、流し台やユニットバスが備え付けられ、一通りの暮らしは可能であった。しかしながら、周囲の圧迫感はどうしようもなかった。窓の向こう側は殺風景な民家の壁が迫っていた。その外部を壁に囲まれた狭い空間に、ベッドやパソコン机、洗濯機や冷蔵庫などの生活家電をコンパクトにまとめていた。この部屋は世界から隔絶した私のためのだけの空間であった。

かつて、この部屋にはテレビもあったのだが、数年前に廃棄してしまった。内容の薄い報道番組や使い捨てのタレントを消費するようなバラエティー番組ばかりのテレビをみるのが、いつの間にか馬鹿らしくなってしまったからだった。

そのかわりというわけはないが、部屋に不釣り合いな大きな本棚が、ここの一番いい場所を占有していた。棚の上では、民法や民事訴訟の専門書が埃をかぶりながら、自らの思想と同様に、その分厚い姿をかたくなに守っていた。彼らの傍らで、私が学生時代から買い集めた古い小説や心理学の本、あるいは洋楽のCDが、先住民であるにもかかわらず、申し訳なさそうに寄り添っていた。

本の遍歴が私の人生を物語っているようだ。若いころ、私は大学院に進み文学研究でもしながら過ごすつもりだった。しかし、大学を出る頃に裕福だった私の家の没落が始まった。世間ずれしていた私は、まともに就職もできず、ただ、暗転する運命を前に膝を抱えて途方に暮れるしかなかった。そのときに死んでしまえばよかったのかもしれないが、あいにく、私はその勇気を持ち合わせていなかった。

死ねなかった私は、孤独に自らの運命に抗った。自分自身の存立のためにあらゆることをした。生きるために人に言えないような稼業に手を染めることもあった。時には、人を欺き、裏切るようなこともした。私は、決して強靭な精神の持ち主ではない。魂の痛みに耐えながら日々を戦い続けなければならなかった。今の安穏とした暮らしは近年になってようやく奇跡的につかんだものだった。

 そのような日々の中、私は、本たちと無数の対話をしてきた。そして、自らの魂に刻み込むかのように、メモ書きというかたちでそのときどきの思考を彼らの中に刻んできた。彼らはもはや、私の分身であると言っても過言ではなかった。

しかし、本たちと濃密な関係を結ぶ一方で、多くのものを夢見た。それは私にとってすべて得難いものであった。友人、若さ、経済的な成功、人並みの結婚とその成果物としての温かな家庭。「たら」や「れば」を言えばきりがないが、時々考えることがあった。もっと他の生き方があり得たのではないかと。

 そのような日々の中で、私は麻里子に出会った。

 彼女は私の心に色彩をくれたのであった。私にはまばゆいばかりの色彩を。

 ふと、とりとめのない思考から我に返れば、洗濯はすでに終わっていた。洗ったものは干さねばならなかった。私は窓を開け、物干し竿に洗濯物を干そうとした瞬間、雨が降り始めたことに気付いた。

「また、今日も部屋干しか?」と私は小さく独り言を言った。最近はこうした些細な独り言が増えた。それは私が歳をとったということを意味していた。

 洗濯物を干し終えるころには、雨は本降りとなり、水の滴る音が部屋を包んだ。洗濯の後に買い物に出かける予定であったが、それは止めにして、部屋で一人佇みながら久しぶりに読み慣れた本でも読むことにした。洗濯や外出の不便さは別として、私は雨の日が嫌いでは無かった。降り注ぐ無数の雨滴が作り出す曖昧な銀色の世界にいるほうが、陽気な太陽の光を叩きつけられるよりも心が落ち着くからであった。私は本棚から三島由紀夫の『暁の寺』を取り出そうとした。

 そのときだった。静かな雨音を打ち破るように、スマートフォンの着信音が鳴った。電話はひまわりクリニックからだった。

私は電話に出た。

「もしもし」

「桐野さんですか?よかった。急にお見掛けしなくなって、心配していました」

声の主は受付の女の子だった。

「少し仕事が忙しくなってね」と私は適当に言い訳した。

「急なご連絡で申し訳ありませんが、今日はこれから何かご予定はありますでしょうか?」と彼女は私に尋ねた。

「別に何もありません。今日は暇です」

「突然で申し訳ありませんが、実は、母が、あっ、いえ、院長が少し桐野さんとお話したいと申しておりまして、それで今日お電話を差し上げました。もしよろしければ、これから当クリニックまでお越しいただけますでしょうか?」と彼女は言った。

彼女があの風変りな女医の娘であることは驚きだったが、それよりも、突然の申し出自体に私は少し驚いた。

「先生の話って?」

「詳しくはわかりませんが大事な話だそうです」と彼女は答えた。詳細は分からないようだった。しかし、院長が話したいことは大体察しがついた。きっと、夢見が上手くいかなくなった原因についてだろうと思った。それは、私がここしばらく考え続けていたことでもあった。そして、私にはそれを知る責務があるのではないかと思った。

「構いませんよ」と私は答えた。

「よかった。それでは、時間はいつでも結構ですのでお待ちしております」

「はい、わかりました、これからそちらに向かいます。それでは、後ほど」と言って私は電話を切った。

 私はこの電話を心待ちにしていたのかもしれないと思った。ひまわりクリニックに行けば何かが分かるかもしれないという期待に私は胸が躍った。今、私を急き立てるものが何であるかは知らない。しかし、とにかく行かなければならなかった。真実に近づかなければならなかった。

 私は飛び出すように部屋を出た。八月の終わりにもかかわらず、いっこうにトーンダウンしない不快な暑さが私を包んだ。気が付けば雨はすでに上がっていた。

 

 私は先ほどの雨に洗われたバラのアーチをくぐり、クリニックの入り口に立った。呼び鈴を押すとすぐさまドアが開いた。

「お待ちしておりました」と娘が微笑みながら、私を中に案内した。建物の中は、午後の日差しを受けていつになく白く輝いていた。娘の白いブラウスと明るい黄色のロングスカートが光を反射してまぶしかった。そして、待合室では観葉植物の小型のヤシの木がその葉を誇らしげに天に広げて陽の光を浴びていた。私はそこでさほど待たされることなく、すぐに診察室に通された。

 診察室のデスクでは、白衣を着た夏木医師が大きなモニターをにらんでいた。画面には、数多くの波形のグラフが表示されていた。

「どうぞ、そこにお掛けになって」と彼女は私のほうを振り返りもせず、診察用の椅子に座るようにすすめた。

「これね。あなたの脳波。この前、上手くいかなくなった後に測ったでしょ。もう一度、確認しているの。特に異常はないみたいね」と彼女はつぶやくように言った。

「今日はお話があるということで伺ったのですが」と私は本題に入るべく彼女に問いかけた。

「今日来てもらったのは、一つには、あなたへの状況報告のため。もう一つは、ちょっとした予言のためよ」と彼女は答えた。

「予言?」

「せっかちはだめよ。まず、状況を報告させて。あれから、私なりに調べたの。あなたが夢を見れなくなった原因をね。私もこう見えて一応科学者だから」と彼女は言った。そして、書類に視線を移し話を続けた。「さっきの脳波以外にも、いろいろと検査したのを覚えているかしら。血圧、体温、心電図測定、眼球の動き…。とにかく、関係のありそうなデータをすべて検証したけど、すべて異常は見られなかったわ。それと、私なりのやり方で、脳内のドーパミン分泌量の推定も行ったけど、これも異常なし」

「簡単に言えば、お手上げということですが」

「そういう表現は好きじゃないけど、そうね。今回はそう受け止めてもらっても構わないわ。この問題の原因があるとすれば、あなたの心の中にあるとしか言えないわね」と彼女は見かけによらず負けず嫌いであるらしかった。

「そうですか」と私は言いながら、落胆の色を隠さなければならなかった。予想していた答えだったが、実際に直面すると言葉に詰まる感覚があることに気付いた。

「ここまでが、状況報告ね」と彼女は話に一区切りをつけた。そして続けた。「ここからはお待ちかねの予言と行きたいところだけど、その前に確かめておきたいことがあるの」

「確かめておきたいことって?」と私は答えた。

「あなた愛してしまっているんじゃないの?心の中のその人のことを」

「そんなんじゃ、ありません。ただ、納得のゆく別れ方をしたいだけです」

「愛してるんでしょ?」

「違いますよ」

「聞き分けのない子ね。正直に答えなさい。愛してるんでしょ」そう言いながら、彼女は、出会って以来の真剣な眼差しで私を見つめていた。私は黙ってうなずくしかなかった。

「そう。それでいいのよ。それが誰かを好きになるってことよ。そうじゃないと、これから始まる冒険の旅に出られないと思うわ。」

「冒険の旅って?」

「あなたはこれから自分でも信じられないくらい遠くに旅立つことになるわ。あなたが大好きな誰かを探しにね」

「遠くってどこまで?」

「遠くっていっても物理的な遠さとは限らないわ。あなたの場合、あなた自身の心の深淵に旅立つんじゃないかしら。あなたに施術していて、何となくそうなるんじゃないかと思ったの。私ね、不思議と分るのよ、クライアントがたどるそういう未来がね」と彼女はどこか遠くを見つめるような表情で言った。

「仮に、僕がそこにたどり着いたとして、あの人に会えるんでしょうか?」と私は彼女に尋ねた。

「さあ、それはわからないわ。でも、ひとつ確かに言えるのは、あなたが決定的に変わるってことよ」

「変わるって?」

「あなたが真に望む存在に変わるってことよ。進化って言ったら言い過ぎかしら」

 私は、彼女が言うことがあまりにも抽象的過ぎたので、思考の焦点を合わせることができずにいた。しかし、同時に、彼女の言うことがまるっきり出鱈目でもないような気がしていた。

「もうひとつ聞いていいですか?」と私は彼女に尋ねた。

「あら、気分が乗ってきたようね。いいわよ。何でも聞いてくれて」

「私はいつ頃旅立つのですか?」

「すぐによ」

「すぐに?」

 診察室の大きな古時計が鐘を二回鳴らした。午後二時を回ったという合図だった。窓からはまばゆい午後の日差しが降り注いていた。窓越しのガーベラから、一羽のアゲハチョウが太陽に向けておもむろに飛び立っていった。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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