23. 「再会」 小説『レイト・サマー』第11章(前編)-あるオートガイネフィリアの物語-

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海の底で誰かが呼ぶ声が聞こえたような気がした。意識が鮮明になるにつれて、その声は大きくなっていった。

「ねえ、吉彦。目を覚まして」と誰かが私に話かけていた。

私はゆっくりと目を開けた。すると、目の前には見慣れた女の顔があった。

「やっと目覚めてくれたのね」と目の前の女が言った。麻里子だった。

「麻里子?」

「ええそうよ。私よ」

「ここは?」と彼女に尋ねながら、私は静かに身を起こした。辺りを見回すと、部屋はすっかり前に彼女と別れたときの状態に戻っていた。壁や天井には傷みはなく、家具類やカーテンなども元通りになっていた。また、枕元に置いたはずのテディーベアは装飾彫りのチェストの上に元通りに収まっていた。以前と違う点といえば、シェード付きのランプに明かりが灯っていないことだった。それでも暗さはほとんど感じなかった。激しく窓や雨を叩きつけていたはずの風雨がすっかり治まり、開けっ広げのバルコニー越しに降り注ぐ大きな満月の光が部屋を明々と照らしていたからだった。月光と静寂に包まれた部屋には私と麻里子の声以外に時折吹くそよ風がレースのカーテンをはためかせる音だけがかすかに響いていた。

「そう、ここは私の部屋よ」と麻里子は答えた。

 目の前の麻里子は一糸まとわぬ姿で私を優しく見つめていた。私は自分自身に意識を向けた。胸元が重みを増し、少しひんやりとした空気は滑らかな素肌を包んでいるのが感じられた。私も麻里子と同じ姿となっていた。

 すべてがあのときのままに戻っていた。

「僕はやっと君のもとへ帰って来れたんだね?」と私は麻里子と同じ声で言った。

 麻里子はにっこりとほほ笑んで頷いた。

 私は麻里子を強く抱きしめた。麻里子は少し驚いたが、すぐに私の抱擁を受け入れてくれた。麻里子の肌の温もりが安堵感とともに私の心を満たした。

「僕は早く気付くべきだったんだ。君が僕で、僕が君であったことを。そして、そこから目を背けてはいけないことを。君はそのことを気付かせてくれるための僕の前に現れたくれた。なのに、僕は、僕は

 私はこみ上げる涙と嗚咽のためにこれ以上何も話せなかった。

「私の方こそごめんなさい。私があなたの目の前に現れることで、あなたの暮らす現実を壊してしまうかもしれないって分ってたの。でも、どうしても私の方を見てほしかったの。だって、あなたのことが大好きだから。好きで好きで仕方なかったから」

 麻里子の涙が私の首元を濡らした。

「もう、どこにも行かないで」

「うん、これからはいつも一緒だよ」

 私たちは月夜で輝くお互いの肢体を慈しむように抱き合いながら唇を重ねた。やさしく擦れ合うお互いの絹のようなきめ細かな肌の感触により、二人の気持ちは昂っていった。

突然、彼女の濡れた唇が私の口元を離れて、そのまま私の乳首に流れていった。

「ねえ、あなたが欲しいの。いいでしょう?」と彼女は上目使いで私に了解を求めた。

 私は静かに頷いた。

 そして、私たちは何度もお互いを求め、絶頂を共にした。お互いを求めあう中で、どちらが私でどちらが麻里子かわからなくなったが、もはや、それはどうでもいいことであった。私は麻里子で、麻里子は私なのだから。私たちは自らの二つに別れた魂が再び一つとなろうとしていることに大きな喜びを感じていた。

 

 セックスを終えた後、私たちは穏やかな余韻の中にいた。ベッドの上で抱き合う私たちを月の光が優しく濡らしていた。

「ねえ、私たちはこれからずっと一緒?」と麻里子は私の瞳を見つめながら言った。

「ああ、そうだよ」と私は答えた。

「じゃあ、今度はいいでしょ?」と彼女は私に尋ねた。彼女が言おうとしていることは理解できた。

「ああ、もちろんだよ」と私は答えた。私にはその覚悟が既にできていた。正直に言うと、最初に彼女と出会ったときからそうすることを望んでいたのかもしれない。

「さあ、そろそろ行きましょう」と言って彼女はベッドから身を起こした。そして私の手をとった。「わたしについてきて」

 私は彼女に導かれるままベッドから起き、部屋から出た。そして、赤絨毯の階段を一階に降り、重厚な木の扉を開けて館の外に出た。

 すると、目の前に信じがたい光景が広がっていた。建物の前にある大きな池の水面全体から空に向けて柱状に強い光が発せられ、周りの森を明るく照らしていた。池のほとりから伸びるボート用の桟橋も光を受けて輝きながら、その煌めきの中心へ我々を導いているようだった。

 私たちは桟橋のすぐ手前に立った。池からの光が私たち二人の裸体を包んだ。

「私たちが今いるところは、いわば、あなたの暮らす「世界」と新しい世界との中間地点なの。新しい世界はこの先よ。この先に進めば、追手がくることもないわ」と彼女は言った。

「いよいよ僕らは新しい世界に旅立つんだね。なんだか怖いな」と私は言った。

「怖がることなんてないわ。新しい世界は私とあなたのものよ。さあ、急ぎましょう」と彼女は言った。

 私たちが新たな世界へ旅立つために池のすぐそばに近づこうとしたそのときだった。一陣のつむじ風が天空に舞った。そして、瞬く間に漆黒の雲が明るく輝いていた月夜の空を覆った。さらに、暗黒の雲の中にホログラムのような不気味な映像が浮かんだ。映像は次第に鮮明さを増し、やがて人の顔にようになった。私は映像の顔に見覚えがあった。その顔はこの「世界」の神を自称するあの老人の顔だった。以前にも増して皺の彫りは深くなり、異常なまでに血走った眼を見開いて我々を睨み付けていた。老人の視線を感じるや否や、麻里子は手で自らの胸元と股間を隠し、怯えた表情で私の陰に隠れた。

 私は麻里子の盾となるように立ち、老人と対峙した。

「君には失望したよ。あれほど、この女と会うなと言っておいたのに」と天空の老人は言った。

「お前、なぜここに?」と私は言った。

「言ったはずだ。私に知らないことはないとな。組織の人間に君を監視させていたのだが、案の定だな。実に嘆かわしい」と老人は言った。

「僕は決めたんだ。麻里子と新しい世界に行く」と私は老人に宣言するように言った。

「何度も言わせるな。そのようなことは断じて許さん。身の程を知らないにも程がある」と老人は憮然として言った。

「別にお前に許しを乞うつもりはないし、その必要もない。何を言われようとも僕の意思は変わらない」

「馬鹿な真似はよせ。君の行動がどうゆう結末を招くのか理解しているのか?」

「もちろん、理解しているさ。我々がこの池から向こうの世界に行けば、あんたとこの『世界』は終わる。ただそれだけだ」

「これが最後の忠告だ。今なら間に合う。思いとどまるがいい」

「それはできない」

「どうあってもか?」

「ああ、そうだ」

 老人はしばらく我々を睨んだまま沈黙した。そして続けた。「君はやはり、どうしようもない馬鹿者のようだ。少々痛い目に遭わないと分らないらしいな」

 老人がそう言った途端、私の頭に耐えがたい激痛が走った。私は立っていることが出来ず、頭を押さえて金切声を上げながら地べたをのたうちまわった。

「吉彦!しっかりするのよ!」と叫びながら、麻里子が私の体に抱き着いた。

 激しい痛みの中で、様々なイメージが嵐のように私の意識の中を駆け巡った。仕事で出会った歪んだ人間たちの顔、ガールフレンドの冷ややかな視線、幼い頃に父親から受けた暴力。そのすべてがロープのようになり、私をがんじがらめに締め上げた。

私はこの呪縛の中で思った。私を絡めとろうとするものは一体何か?それは私の記憶、すなわち私の歴史そのものではないか?言い換えれば、私そのものではないか?私は自分自身の重力に抗うことは出来ないのではないか?

やがて、私の手足の感覚は麻痺してゆき、痺れとともに私の意識は空白の中へと遠のいていった。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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