24. 「光のなかへ」 小説『レイト・サマー』第11章(後編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 私は我に返った。さっきまで何か考えごとをしていたようだった。

 多くの営業社員が出払った午後のオフィスは静まり返っていた。エアコンの風を受けて震えるブラインドと、目の前の女子社員がパソコンのキーボードを打つ音だけがかすかに聞こえるだけだった。

先ほどまで何を空想していたのかはっきりと覚えていない。確かに言えることは、ここが会社のフロアで、私は仕事中であるということだ。目の前の広がるのは明るく広い空間に整然と並ぶデスクとそこで働く人たちだ。彼らは周囲に全く興味がないかのように自らの仕事と向き合っていた。

 すべてが理路整然とした秩序の中にいる。これ以上望むべきものはない。ここが私が居るべき場所なのであった。これまでもそうであったし、これからもそうあるべきであった。

 私には夕方までにやるべき書類仕事があった。手際よく終わらせなければならない。そして、いつも通り家路につくつもりだった。いつもの電車に乗り、いつもの駅で降り、いつものスーパーで晩の惣菜を買って帰り、ささやかな夕食を楽しむ。何ら高揚感は無かったが、私はこの生活が好きであった。何も足すべきではなかったし、何も引くべきではなかった。また、この暮らしがこれからも続くことを望んでいた。

 私は窓の外に目をやった。夏の日差しが私の目を刺した。八月も終わろうとしているが、夏はまだ終わりそうにない。

 私がパソコンの画面に目を向け、仕事に戻ろうとしたそのとき、遠くで誰かが私を呼ぶ女の声が聞こえたような気がした。しかし、周りを見回しても誰も私に見向きもしていなかった。気のせいだと思い、私は再び仕事に戻ろうとした。

「吉彦!」

 私を呼ぶ声がまた聞こえたような気がした。妙だ。気のせいが二回続くことは通常ではありえない。

「吉彦。お願い、戻って来て!」

 今度は確実に誰かの声が聞こえた。気のせいなどではない。しかし、その声がどこから聞こえてくるのか皆目検討がつかなかった。ただ、私の魂の深淵がにわかにざわつき始めているのが自分でも分った。

 私に呼びかけるのは誰なのだろうか?私は静かに目を瞑り、記憶の奥底を探ってみた。この声に聞き覚えがある。この声の主は、私にとって大切な人。かけがえのない人。あるいは自らの心の叫び。

 私はここにいてはならないような気がしてきた。

 私はここで一つの仮説を立ててみた。すなわち、私がここで目にしている現実が一種の白昼夢であって、私は真の現実に呼び戻されているのではないかと考えたのだった。

 それを検証する方法が一つだけあった。

 私はデスクから立ち上がり、十メートル離れたところにあるコンクリートの柱の前に立った。そして、拳を振り上げ、柱をありったけの力を込めて殴ってみた。すると、まるで柱が幻影であるかのように、私の腕は柱の中にすうっと飲み込まれた。私の拳に衝撃と痛みが走ることはなかった。

 案の定、これは夢だった。私を縛り付けるための夢に過ぎなかった。私が夢の中にいるということは、戻るべき現実があるということを意味していた。そして、それはきっと声の主がいる世界に違いなかった。しかし、声の主は誰なのか、また、私が戻るべき世界はどこなのか皆目検討が付かなかった。

 そのとき、私の頬に痛みが走った。なにか温かくて柔らかいものにぶたれたような感覚だった。わけもわからず呆然としていると、再び頬を叩かれたような感覚が走った。その後も頬に叩かれたような痛みが断続的に走った。そして、痛みが走る毎に、私が目にしているオフィスの光景は焦点がずれていくように細部が曖昧になっていった。それとともに、本来私がいるべき世界の記憶が蘇ってきた。

私を呼ぶのは、そうだ、麻里子だ。私にとって失われてはならない存在だった。そして我々は共に新たな世界に旅立とうとしていたのだ。

「吉彦の馬鹿!今度は私を一人にしないって言ったじゃない。あれは嘘だったの?あなたがいなくなったら、私はどうしたらいいかわからない。お願いだから戻って来て!」

 私を呼ぶ悲痛な声が私をすっかり目覚めさせた。ゆっくりと目を開けると、泣きじゃくる麻里子の顔があった。私はいつの間にか老人の作り出したまやかしの中に堕ちていたようだった。麻里子が私の頬を叩きながら必死に私を正気に戻してくれたのだった。

「もう大丈夫だよ。ありがとう」と私は麻里子に言った。

 麻里子は何も言わず私を強く抱きしめた。彼女の温もりが心地よかった。

「おのれ、目覚めおって。永遠に眠っていればいいものを」と老人は口惜しそうに言った。

「もうこの人にまやかしは通用しないわ」と麻里子は老人を睨み付けて言った。

老人はもはや二つの世界の狭間で我々を妨害することはできなかった。彼はすでに万策が尽きていた。

 私と麻里子は立ち上がり、向き合いながらお互いの瞳を優しく見つめた。

「もう邪魔するものは何もないわ。行きましょう」と麻里子は言った。

 私は微笑みながら大きく頷いた。そして、彼女の手を取って光の桟橋の方へ一歩踏み出した。

「待ちたまえ。君は本当に行くのか?」と老人は狼狽の表情を浮かべながら言った。「頼むから聞いてくれ。君の気持ちも考えずに一方的に行くなと言い続けて申し訳なかった。君にどうしてもこの『世界』に留まって欲しかったのでこのような言い方になってしまったのだ。君も愛すべき私の被造物なのだ。手放したくはない」

 私は老人の申し出を無視して、麻里子と共に桟橋に足を踏み入れた。

「なあ、頼む。向こうの世界に行くのを思いとどまってくれないか?もちろん、ただで残ってくれとは言わん。君の望みを何でも叶えてあげよう。君が知ってのとおり、この『世界』で私にできないものはない。さあ、何でも言ってみてくれ、大金持ちになりたいか?それともどこかの国の大統領になりたいか?」

 私は老人の申し出に耳を貸さなかった。私にはこの『世界』で望むものはもはや何も無かったからだ。望みはただ麻里子とひとつになることだけであった。私と麻里子は互いに手を取り、桟橋を光の中へ進んだ。

「後生だ!頼むから行かないでくれ!この『世界』が終わってしまう。私にとってこの『世界』がすべてなのだ。お願いだ。行かないで」と老人が懇願の声を上げた。

 私たちはその声を無視して光の中の桟橋をさらに進んだ。

光の外で老人の断末魔が聞こえた。そして、再び静寂が訪れた。

 私たちは桟橋の最先端にたどり着いた。目の前に広がるのはまぶしい光の海だけであった。水面からの光に照らされながら、私たちはお互いの身体を抱きしめ、柔らかな肌の温もりを感じた。そして、長いキスをした。

 キスを終えた私たちはそれぞれの相手の瞳を優しく見つめ合った。私たちはこれからひとつになることに、それぞれ小さな胸を高鳴らせていた。

「そろそろ行きましょう」と麻里子は私の瞳を見つめながら言った。

「ああ、行こう」と私は答えた。

 私たちは抱き合ったまま桟橋から煌めく水の中に身を投げた。私たちの身体が光り輝く水底に向けてゆっくりと沈んでいった。それはむしろ天に向かって昇ってゆくようにも思えた。水の中にいるにもかかわらず、冷たさや息苦しさは全く無かった。私たちは私たちを育んだ原始の海に帰ってきたのだった。そこには母の胎内のような安らぎと温もりだけがあった。

 光の源に近づくにつれ、目の前の麻里子の顔も純白の中に埋もれていった。そして、私の意識も白い虚無の中へ拡散しながら消えつつあった。

 これでいいのだ。これでいいのだ。これが私の真の望みなのだ。

 もはや、何も考えることが出来なかった。

 私はただ大きな喜びの中で私自身の意識が溶解してゆくのを感じていた。

 

 どれぐらい時間が経ったのだろうか?私は静かに目を開けた。

 私は古びた山荘の洋間で寝袋に包まって一夜を過ごしたようだった。部屋の中は夜明け前の薄暗さに包まれていたが、嵐はすっかり治まっていた。

 私は身を起こして辺りを見回してみたが、麻里子の姿は無かった。

「麻里子」と私は彼女の名前を呼び掛けてみたが、私の男の声が静寂の中に空しく響くだけだった。

 あれは、ただの夢だったのか。私の意識の中ではにわかに寂寥の色が広がった。しかし、私はここですぐに思い直した。夢でもいいではないか。あの一晩の夢が私にとってのすべてなのだ。私はあの夢を見るためにこれまでの三十余年を生きてきたのかもしれない。私は夢のかけらを抱えながらこれからの生涯を生きてゆくのだろうと思った。

 私が祭りの後のような感傷に身を任せているうちに、部屋の中が仄明るくなっていた。夜明けはすぐそこに迫っていた。

私は夜明け前の山林の凛とした空気を感じてみたくなった。

 私は古びたベッドから立ち上がり、ベランダの方へ向かった。そして、大きなガラス戸のねじ穴式の鍵を外し、力を込めて動かしてみた。木製のサッシの上でガタつきながらもガラス戸はゆっくりと開いた。ガラス戸を人が一人通れる程に開けて、私は外に出てベランダの上に立った。外は夜明けの凛とした空気に包まれていた。

 私は昨晩身を投げたはずの池がある方向を眺めた。池の向こうには森が広がり、その奥には山の稜線が幾重にも重ねっていた。

 そのときであった。はるか彼方の山峰の合間にまばゆい光が見えた。日の出であった。陽の光は次第に力強さを増してゆき、瞬く間に森の木々や池の上を照らした。朝日に照らされた眼前の風景はこれまでに見たことがない輝きを放っていた。池の水面は無数の銀の波をはためかせ、辺りを一層明るくしていた。また、木々や草花は朝露に濡れた葉の一枚一枚から、その命の輝きを煌めかせ、野鳥たちは夜明けを祝福するかのようにそのさえずる声を競い合っていた。

 なんと美しいことか、と私は強く思った。

 私はこれほどまでに喜びに満ちた美しい風景をこれまで見たことがなかった。正確にいえば、今まではその美しさに気付くことができなかったのである。無論、これまでに夜明けの風景は何度も目にしているはずである。しかし、その世界に属することを忌み嫌っていた私にはその真の姿を見ることは出来なかったのである。

 しかし、今はそれができる。私は新しい世界にやってきたのだ。私の中で世界が新しく変わったと言ったほうが正しいかもしれない。私はこみ上げる思いで胸が熱くなった。

「今、僕たちは新しい世界にいるんだね」と私は小さく呟いた。

 そして、私は雲一つない朝の空をずっと見つめていた。

 

 一郎さんは約束通り、朝九時に山荘の前にやって来た。私は下山の準備を整えて山荘の前で彼を出迎えた。

「昨日はひどい嵐でしたけど、大丈夫でしたか?」と一郎さんは言った。

「ええ。屋敷は思ったよりもしっかりとしていましたので」と私は言った。

「それは、よかった。それじゃ帰りましょう」と一郎さんは言った。

 私たちは、山荘を後にした。庭の草原を歩いて再び森の中に入ろうとしたときだった。一郎さんは振り向いて、後続の私に尋ねた。「何かいいことでもあったんですか?」

「えっ、どうして?」と私は逆に問いかけの意図を彼に尋ねた。

「昨日と比べると、何だか表情が明るくなったような気がしたんで」と彼は答えた。

 正直に言えば、このときの私は随分高揚していた。ようやくたどり着いた新たな世界での来るべき日々への期待が自然とそうさせていたのであった。

 私は新世界へやってきたことの喜びを噛みしめていた。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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