22. 「廃墟」 小説『レイト・サマー』第10章(後編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 我々はリュックサックを背負って目的地に向かい歩き始めた。

 私は一郎さんに先導してもらい、その後に続いた。彼が言っていたとおり、少し戻ったところから登山道が伸びていた。我々は森の中へと登山道を進んだ。先ほどまでの道とは違い、森の中は杉などの木々が作る陰のため一層暗い。晴れた日なら木漏れ日も期待できるが、小雨が降る中ではそれは無理だった。暗く湿った森の中は落葉の中に生えた低木やシダ、苔類の山の植物が生い茂り、まるで異質な人という存在の侵入を拒む異界のようだった。我々はその異世界を曲がりくねりながら細々と走る獣道をとぼとぼと歩いて行く他はなかった。

 登山道はときおり岩ばかりの上り坂が続いた。岩を一つ一つ踏みしめながら登ると、汗が体中から吹き出し、息が上がった。歩き出した当初は一郎さんの世間話に応じることができたが、次第にその余裕も無くなり無言になっていった。

 小一時間ほど歩くと、少し開けた場所に出た。そこには岩がちの沢があり、清流がごうごうと音を立てて流れていた。遠くに山々が連なっているようだが、山霧のためぼんやりとしか見えなかった。

「ここで小休止にしましょう」と一郎さんは言った。我々は少し休憩を取ることにした。

 私は清流で顔を洗い、水を口にした。きれいな水で体内が洗われるような感じがした。

「美味い」と私は思わず言葉を漏らした。

「ここの水はきれいですからね。ヤマメだって住んでいますよ」と一郎さんは言った。

 我々は適当な岩を椅子がわりにして、少しだけ体を休めた。山歩きに慣れた一郎さんはけろりとしていたが、私はそうは行かなかった。足に疲労が溜まり、ひざやふくらはぎがこわばり始めていた。このまま目的地まで私の足が耐えられるか密かに心配であった。

「今、私たちはどれぐらいまで来ているのですか?」私は一郎さんに尋ねた。

「そうですね、半分と少しくらいですかね」と彼は答えた。ここまでで半分ということであれば、目的地まではなんとかなりそうだった。

 ここで、目的地の山荘の現状がどうなっているのか急に興味が湧いて来た。

「ところで」と私は彼に問いかけた。「例の山荘は今どんな感じですか」

「私はあの屋敷のことにはあまり詳しくないのですが、それでも時々除草作業を手伝いに行っていますので少しは分ります。外から見た感じでは、相当傷んでいるようです。幸い、屋根や壁はまだ原型をとどめているようですが、雨漏りは相当しているでしょうね」と彼は答えた。

 父親が存命中は、時折目立つところは補修していたようだったが、細かなところまでは手入れが出来ていなかったのは容易に想像できた。しかし、それでも全く構わなかった。私のそこでの目的からすれば、最低限雨風がしのげればそれで十分だった。

「実は」と私は彼に思い切って言った。「私だけ山荘に残り、一泊しようと思います」

「本気ですか?」と一郎さんは驚きで目を見開きながら言った。「今は電気も水道も通っていない空き家ですよ。よしといたほうがいい」

「いや、どうしてもそうしなければならない理由があるのです。キャンプ道具も持参しているので問題ありません」と私は思わず強く彼に言った。

「そうですか、わかりました」と一郎さんは一夜を過ごす理由には深入りせずに了解した。きっと、変わり者の家主だと思われたに違いなかった。「でも、これから嵐になるので外は出歩かないほうがいいですよ」

「嵐になりますか…」と私は呟いた。この旅は少なくとも天に祝福はされていないようだった。これから私がこの「世界」を滅ぼしかねないので当然といえば当然であった。むしろ、私の行動はこの「世界」を怒らせるのに十分なものであるに違いなかった。

「さあ、そろそろ行きますか」と一郎さんは言った。我々はまだ残り約半分の行程を歩かねばならなかった。

 我々はこれまでよりも更に険しい道のりを歩まねばならなかった。標高が上がれば上がるほど、植林された杉の木はまばらになり、ブナなどの原生林の巨木が増えてきた。獣道はしばしばこれらの根に分断され、足場が次第に悪くなっていた。私は幾度となく値の上に生えた苔に足を滑らせ転びそうになった。転ばないように踏みとどまる度に私の膝は悲鳴を上げた。休憩から更に一時間程歩いた頃には、私の疲労はとうに限界を超えていた。それでも、一歩一歩足を前に出していた。もう何も考える余裕はなかった。ただそこに存在するのは私の意思と足だけのように思えていた。

 やがて、遠くに明るく光る場所が見えてきた。きっとそこがこの森の出口のはずだった。そこから発する光は私の歩みに合わせて少しずつ強まっていった。もう少し、もう少しと私は自分自身を励まして鉛のように重くなった足を一歩ずつ前に繰り出した。

 もう少し、もう少し。運命の場所はすぐそこだ。

 しばらく歩くと、我々はようやく闇の支配する森を抜けて、明るく開けた場所に出た。そこは芝生の生えた庭のようだった。私は安堵と疲労からその場にへたり込んでしまった。

「結構大変でしたね。山荘はあそこの方ですよ」と一郎さんはかすかに息を上がらせながら、森と反対側を指さした。

 私は彼が指さす方向を見てみた。山霧の中の池のほとりに建つ大きな建物らしき影が見える。私はゆっくりと身を起こし、疲れ切った足を引っ張るようにその影のほうに歩いて行った。

 影は私が近づくにつれ、その輪郭をはっきりとさせていった。そして、ついに自らの全貌を明らかにした。

 それは片側に大きな多角形上の出窓の部屋がある、木造二階建ての西洋風の切妻屋根の大きな山荘だった。私はついにこの場所に帰って来たのだった。深い感慨が私の胸を満たした。

「どうですか?結構傷んでいるでしょう」と後から来た一郎さんが言った。

「たしかに」と私は答えた。しかし、私にとってもはや不動産としての価値は重要ではなかった。ここで私が本来の私に回帰すること、ただそれだけが重要であった。

 私は一郎さんにここまで連れて来てくれたことのお礼を言い、私を残して一人で山を降りてもらうようお願いをした。彼はここで一夜を過ごすことを思いとどまるよう、再度私への説得を試みたが、私が頑なに断ったので、最後には折れて、ここに残ることを了承してくれた。しかし、一人での下山は危険なため、彼が翌朝の九時にここに迎えに来てくれることになった。無論、翌朝もこの「世界」が健在ならば、という前提付きだが、それについては彼に理解させるのは無理だったので、あえて説明しなかった。彼は私を心配そうに振り返りながら山を降りて行った。

 一人になった私は改めて濡れそぼったその山荘と向き合った。昭和初期に外国人建築家が設計したその山荘は、壁や屋根のいたるところが朽ちかけていたが、私の記憶にある山荘に間違いなかった。それはまるで、数十年の風雪に耐え、崩れつつあるその身で私の帰還を待っていたかのようだった。

 雨足が強まる中、私は意を決して山荘の中に入ることにした。

 山荘の入り口は屋根付きのオープンテラスとなっていて、そのテラスの左側面に重厚な玄関扉を構えていた。私は腐りかけた木の階段を踏みしめてテラスに登り玄関の前に立った。扉の鍵穴に平尾弁護士から受け取った鍵を入れて力を込めて回すと、重い感覚とともに静かにロックが外れた。

 私はリュックサックから懐中電灯を取り出し、解錠された扉を開けて建物の中に入った。玄関は側面から出入りするようになっており、入って右側に屋内の空間が広がっていた。床に目を向けると埃に覆われていたので、私は上がりかまちを靴のまま上がった。玄関口の上がったところから正面に階段が伸びていて二階へと続いており、右手は大広間に続く赤絨毯の廊下となっていた。

 私は右手の廊下を進み、大広間に入ってみた。大広間には天井から床に広がる大きな出窓があり、そこからの採光により、漆黒の室内がほの明るくなっていた。かつて部屋中を彩っていた家具類や装飾品はもはや残されておらず、出窓のそばに肘置きのないダイニングチェアが一個取り残されているだけであった。

 私は出窓のそばに進み、埃を手で振り払ってダイニングチェアに腰かけた。私は外の木々を見ながら遠い夏の日のことを思った。私は子供の頃の一夏を父母とともにこの館で過ごしたのだが、父母との折り合いが悪かった私はこの館の中でも孤独であった。そして、この出窓の前に立つのは私にとっての一つの慰みになっていた。私はこの窓により切り取られた、夏山や煌めく雲が織りなすポストカードのような風景を見るのが好きだった。また、時折聞こえる野鳥たちの戯れるようなさえずりを聞くのも好きだった。この場所は私にとって最も大切なところの一つであった。

この窓際に佇んでいると、この「世界」に自分がただ一人取り残されているような気がした。私はこれからこの「世界」のあらゆるものとの縁を絶とうとしているのだった。もし、私が新たな世界に導かれようとしているのであれば、ここでの風景は見納めとなるのだろうと思った。

しばしの感傷の後、私は廊下を玄関側に戻り、廊下と同じく赤い絨毯が敷かれた階段を二階に登った。階段の中二階には窓があり、照明がなくとも足元が見えるように程よく採光されていた。階段を登り切ると窓の向こうに大きなバルコニーが広がり、左手には廊下が続いていた。廊下にはいくつかの部屋の入り口が面していた。それぞれの部屋のドアは閉じられており、ここからはその中を伺い知ることは出来なかった。

私の遠い記憶が確かならば、麻里子の部屋はこの廊下の一番奥の大きな寝室だった。私はそのまま廊下を奥に進み、寝室のドアを開けた。

私の記憶は正しかった。そこは麻里子と過ごしたあの部屋に間違いなかった。ただし、ここも下の大広間と同じように見捨てられた廃墟の一室となっていた。部屋を飾っていた瀟洒な家具類や臙脂色のカーテンはなく、麻里子との情事で私のあらわな姿態を映した大きな姿見もなかった。ただ、埃だらけの大きなベッドだけは運び出されずに部屋の中央に残されていた。

私は中央のベッドに腰かけた。そして、荷物から麻里子のテディ―ベアを取り出して、本来ならば枕がある場所のすぐそばに置いた。

 あとは彼女が再び現れるのを待つだけであった。私の手元にあるテディ―ベアにであったとき以来、私には必ず彼女と再び会えるという確信があった。私と彼女はもともとひとつであり、私が強く望めばそれはできるはずであった。

「麻里子、やっと帰って来たよ」と私は小さな声で呟いた。私は戻るべき場所に戻ったという安堵感に包まれていた。そして、ここに来るまでの疲労が私の上にどっとのしかかってきたようだった。

 私はしばらくここで眠ることにした。私は一旦立ち上がり、ずぶ濡れになったマウンテンパーカーとトレッキングパンツを脱いだ。体中が濡れていたので、ひどい寒気がした。私は濡れた下着を着替えて、ベッドの上で寝袋に包まった。

 寝袋から顔を出して薄暗い天井を見上げると、ベッドの上を飾っていたはずの純白の天蓋はなく、大小様々な茶色の染みが見えた。傷んだ天井のいたるところで雨漏りがしているようだった。いつの間にか雨風が強くなり、風雨が屋根や窓を叩きつける音だけが部屋中に響いていた。

 すでに嵐の夜は近づきつつあった。間断なく響く雨風の音を聞きながら、私は静かに眠りに堕ちた。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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