2. 「熱帯夜の孤独」 小説『レイト・サマー』第1章(後編)-あるオートガイネフィリアの物語-

一時間後には、私は会社に戻っていた。日本橋のとあるオフィスビルの、中堅の金属素材メーカーにしては広すぎるワンフロアが我が社の本社ということになっており、私はここの法務部に籍を置いていた。私は各支店や工場からのリクエストに応じて契約書の作成やリーガルチェックをすることを主たる業務としていた。また、時には債権回収や弁護士事務所との折衝、契約立ち合いをもこなすこともあった。

外出から戻ったばかりのオフィスは昼間にもかかわらず、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。クーラーからの静かな送風音により、時間が流れていることをかろうじて感じることができた。

私はデスクで一息つこうとしていたが、そこに、同じ部署の若い女子社員が私の背後から声をかけてきた。「あの、桐野さん」

「何だい?美菜ちゃん」と私は彼女に話しかけた。

「部長がお呼びですよ。相当お冠みたい」と彼女は言った。

「面倒くさいな」と私は呟いた。

 次の瞬間、彼女の背後にやたら背の高い銀髪の男が現れた。沢木部長だった。

「桐野。ちょっと来い」と彼は低い声で私に言った。明らかに不機嫌そうだった。

 私はそのまま窓側の奥まった場所にある彼のデスクの前に立たされた。部長はデスクに肘を付けて指を絡めた格好で椅子に座り、私の顔を下から睨み付けた。

「お前、営業部の水沢に拝み倒されて、前野工業に債権回収に行ったな?」と部長は言った。

「ええ、そうですが」と私は答えた。

「やはり、そうか。さっき、前野社長から電話があった。随分とご立腹のようだ。お前、一体、何を言ったんだ?」

「別に大したことは言っていませんよ。代金を払わないなら、強制執行も辞さないと言ったまでです」

「あのな、桐野。前野工業はどういう取引先か分っているのか?小さな取引先だが、うちとは三十年来の取引先だ。しかも、前野社長はうちの会長のご友人だ。決してご無体な扱いをしてはならないお方だ」

「そんなことは百も承知です。しかし、部長、いくら会長とご昵懇でも、債務不履行はいけません。それを回収するのは会社の利益を考えれば当然のことだと思いますが」

「それはそうだが、たかが三百万円じゃないか?ここは目を瞑れ」

「しかしですね、部長」

「しかしも糞もない!」と部長は荒げた声を出して言った。「尻ぬぐいをする身にもなってみろ」

 私は黙るしかなかった。

「とにかく、これから私が菓子折りをもってお詫びに伺うから、お前はもうこの件のことは忘れろ。回収した代金については、第一営業部の島田部長と話をしてそのまま全額をお返しすることにした」

「そんな、それじゃ水沢君があまりにもかわいそうですよ」と私は食い下がった。

「彼には悪いが、もう決まった事だ」

「部長、ちょっと、待ってくださいよ」

「もう話は終わりだ。さあ、早く仕事に戻った、戻った」

 まるでとりつく島もなかった。私の経験則から言えば、こうなれば、彼に何を言っても無駄だった。私はこれ以上議論するのをあきらめるしかなかった。

 

 債権回収が無駄骨に終わったことを嘆いている暇は無かった。私はその後、山積している仕事に追われた。

私がパソコンの画面に向かい溜まったメールを処理していたところに、私のとなりのデスクの小柄な男が声をかけてきた。「おい、君、聞いたか、昨日の裁判の話。いやぁ、驚いたね。てっきりうちが押してると思ってたけどね」

「まあ、小耳には挟んでいましたが」と私は答えた。

裁判というのは、我が社が競合他社の特許権を侵害したとして二年前から訴えられている件だった。この件は争いの論点が専門的であるため、法務部ではなく知財部が主管していた。法務部員たちは傍観者であることに苛立ちながら蚊帳の外で裁判の「戦況」に聞き耳を立てるしかなかった。私もこの紛争の行く末に全く関心がないわけではなかったが、この時は雑談どころの話では無かった。しかし、無視するのも気が引けるので、仕事をしながら適当に相手をすることにした。

「要は、弁護士に騙されてたってことかね?」と男が言った。

「そう言えなくもないですね」と私は答えた。

「裁判官の心を読むってのも、弁護士のスキルなわけでしょ。やっぱあの先生じゃ無理だったのかな。不利ってわかってれば、他に打つ手もあったかもしれないのにね、早々に降参して和解条項で首が締まらないように拝み倒すとか」と彼はそう続けた。

「上村さん、本気でそう思ってるんですか?」

「いやいや。冗談だよ、冗談」と彼は言った。「しかし、これからしんどいよね。負けるとなると。少なくとも相手に譲歩の必要性はないわけだ。和解交渉になるかね」

「負けが確定する前に、うちも特許権侵害で訴え返したらいいんですよ。前にドラマでやってたみたいに。もしかしたら刺し違えでドローに持ち込めるかもしれません」と私は、パソコンの画面に向かったままでそう答えた。

「うちの保有特許で?それは厳しいんじゃないの?だって、うちの特許って、お飾りみたいなものでしょ?そんな特許でも権利が取れたら上のほうはご満悦。使い物にならない特許を抱えて泣きをみるのも、これまでそういう特許ばかり取ってきた知財部の自業自得というものだよね。まあ、よその部署のことなんて知らないけど」と上村は言った。彼は知財部のことを快く思っていないようだった。私も社内での法務部と知財部の仲が悪いのは承知していた。しかし、私はそのような不毛な対立とは意識的に距離を置いていた。

気が付けば、時計はすでに夕方6時を回っていた。フロアは人がまばらになっており、無人のデスクのうえは、西日でオレンジ色に染まっていた。

「ところで、仕事終わんないの?」と上村はそう言った。

「外注先の飯野製作所との秘密保持契約書の条項案を今日中に見直さなければならないんで。先方から契約締結直前に直してくれって泣きが入ったらしいです」と私はそう答えた。もちろん、彼の手伝いは期待していなかった。彼は同僚を助けるような人間ではなかったし、私としても適当に口出しされると迷惑だと思っていたからだ。

「そうか、それは気の毒に。申し訳ないけど、今日は家族と食事に行くんだ。娘がどうしてもとせがむんだよ。遅くできた子なのでつい甘くなってしまうんだよね。最近は残業規制が厳しいから君も遅くならないようにね。8時にはエアコンが強制的に止まるからそれまでには帰ったほうがいいよ。それじゃ、お疲れさま」と彼はそう言って帰っていった。どことなく彼の足取りが軽いように見えた。

 私は仕事に戻った。静まりかえったオフィスでひとり残務を進めていると、なぜか、妻と娘と水入らずで過ごす上村のイメージが頭をよぎった。今日は娘の誕生日か何かだったのだろう。今頃、彼の住む北千住あたりの小奇麗なレストランでささやかな幸せを分かち合っているのだろう。私はそれに構わずに仕事を進めようとしたが、書類を読む私の脳裏に何度もしつこく浮かび上がった。そして、遂には仕事が手につかなくなってしまった。

 私は頭の上で手を組み、薄暗い天井を見上げた。

 「馬鹿らしい」と私は呟いた。

 何について苛立っているのか自分でも分らなかった。ただ、無人のオフィスによく通る自らの乾いた声が誰か他の人のもののように思えた。

 

 週末の夜、私は「メイデン・ボイジ」というバーに居た。

「ねぇ、聞いてよ。今週は本当にストレスフルな一週間だったわ」とショートボブの女が言った。ピンクの細身のワンピースと髪の間に見えるうなじの白さがまぶしい。

「どうしたんだい。いいよ。言ってみて。何でも聞くからさ」と私はほとんど氷だけになりかけたグラスを傾けながら答えた。

この手の話では、私は専ら彼女の聞き役だった。私は自分の役割はそうゆうものだと心得ており、自分からくだらない愚痴をこぼすことはなかった。仮に私が何か言っても彼女はまともに取り合ってくれなかっただろう。私はそれでも特に不満はなかった。

「先週お店に来た不動産会社の社長からのLINEメッセージがほんとうにウザいの。『どうかこの老いぼれと付き合ってくれないか』って、一日に何度も入れてくるのよ。私、お昼の仕事もしているのは話したことあるよね。昨日なんか、仕事中に何度もメッセージしてくるから周りから変な目で見られるかと思って大変だったわ。あぁ、あのハゲオヤジ、ほんとキモい。個人のIDなんか教えなきゃよかった」と彼女は言った。

そして、さらに彼女は続けた。「それとね、おとといなんか、生意気な新人の子がヤクザのお得意様を怒らせちゃって。私までとばっちりを受けちゃった。『てめぇ、ぶっ殺すぞ』ってね。本当に怖かった。吉彦は気が弱いから泣いちゃうかもね。その後もママから呼び出されて教育係の私が悪いっていうの。ねぇ、ひどいと思わない」

「それは災難だったね」と私はそう返した。実際にはことさら感想はなかった。ただ、私が「気が弱いから泣いちゃうかもね」は余計だと思ったが。

この手の話に対する応対は、アウトラインさえ押さえておけば、あとは適当に同調しておけば事足りる。女の筋道のない長話とはそういうものだ。彼女の声を聴き流しながら、店の中を観察してみた。アンティークの椅子とテーブルのあるこぢんまりとした店の中は、洒落た間接照明で程よい明るさに調整されていた。また、我々が座っている年代物のカウンター越しでは、年配の店主がシェーカーを振っていた。軽快な手首のスナップから、彼のこれまでのバーテンダーとしてのキャリアが伺われた。彼はその軽やかな手さばきでこれまで何万回カクテルを作ってきたのだろうか? 奥のテーブルでは若い男女が何やらささやきあっていた。二人の距離感は今の自分にはまぶしく思えた。BGMの「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」の官能的なサックスの調べが彼らを祝福しているように思えた。

「ねぇ、聞いてる」と彼女が不意に問いかけてきた。

「あぁ、もちろん」と私は反射的に答えた。

 彼女は私に何を求めているのだろう?いまだによくわからない。彼女と出会ったのはいまから半年程前だった。会社の送別会の二次会でいったクラブで彼女がホステスとして我々に同席してくれたのだった。私は職場の酒の席は好きではなかった。普段は一次会で切り上げるのだが、その日は切り上げるタイミングを見極めるのが難しく、どうしてもそれが出来なかった。ラウンジのソファーで所在なくいたところが彼女の目に留まったらしい。この手の店に来る客は、大抵は酔ってコンパニオンに大言壮語を吐く。そんな連中とは明らかに毛色がことなる私のことが新鮮に映ったらしい。彼女は少し年増であったが、それなりに美しかった。私も彼女と親身になれて悪い気はしなかった。気が付けば我々は連絡先を交換していた。

 最初の頃は、我々は非常にうまくいっていた。食事にも何度も行ったし、ドライブにも行った。しかし、二人には乗り越えられない壁があった。それは、彼女の小学2年になる一人息子のことだった。私としては養育する用意があった。私はそれとなく我々の今後のことについて―わかりやく言えば、彼女とその息子と所帯を持つことについて―提案を持ちかけようとしたのだが、彼女は一切乗らなかった。理由はよくわからないが、私は父親候補として不適格と判断したのだろう。我々はどこにもたどり着けないまま、ただ、惰性のみで逢瀬を重ねているのだった。

 その後も1時間ぐらいこのようなやりとりが続いた。私は、彼女が言葉を吐き終えて満足したのを見計らい、店を出ようと切り出した。彼女もそれに応じた。

 「しばらく歩こうか?」と私は酔いを夜風に吹かれて少し覚ましたかった。もう真夜中近くだった。真夏のまとわりつくような生暖かさが残る夜が街を覆っていたが、それでも昼間よりははるかにましだった。通りすがりのヘッドライトが時折私たちを照らした。今日は土曜日のせいか、車の数が少しまばらな感じがした。通りのコンビニの集虫灯に虫たちが群がっていた。

「最初に出会ってからもう半年ね」と彼女は言った。

「そうだな」と私は答えた。

「吉彦はなんで私と付き合ってるの?変な意味じゃなくて」

「それは」と言ってわたしは言葉に詰まった。正直に言えば、私にもその理由がよく分らなかった。

「まあ、そんなことはいいじゃないか」と私はそう答えざるをえなかった。

「それよりも手をつなごうか?」と私は彼女に手を差し伸べようとした。

「いいよ。恥ずかしいから」と彼女は私を避けるように手を自分の胸のほうに引っ込めた。

「そう」と私は手短に了解した。

柔らかだが、冷淡な拒絶。私は自分の行動を少し後悔した。付き合い始めた頃はよく手を繋いで歩いた。だが、今となってはそんな簡単な希望もかなわない、それが現実だった。

「そろそろ帰ろうか。駅まで遠い。タクシーで帰ろう。家まで送るから」と私は彼女に提案した。今日はそろそろお開きだ。

「いいよ。いつも悪いから。それに近くに友達が住んでいるの。もちろん女の子よ。へんなかんぐりはなしよ。今日は彼女のところにお泊りするの」

「彼女は近くに住んでるの?」

「うん、すぐそこ」

「そうか、それじゃ、今日はこのへんで。またね」

「さようなら」と彼女は言って、角を曲がり、路地の奥へと消えた。私は彼女との関係の終わりを感じた。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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