12. 「危機」 小説『レイト・サマー』第5章(後編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 長い廊下を歩いてゆくと、リーダーが言っていたエレベータに行きついた。そして、そのすぐ手前に白い壁に囲まれた人気のない休憩室があった。ここには窓はないものの、照明により明るく照らされ、後ろめたい陰湿さとは無縁のように思えた。簡素な白いソファーとテーブルが部屋の中央に置かれ、壁際に自動販売機が数台置かれていた。

 そういえば、私は昨日の夕方から飲まず食わずであった。ひまわりクリニックで顎鬚たちに拉致同然に連れ出される前に、自分の部屋でビールを飲んだのが最後だった。そう思うと、急に喉が渇いてきた。

「ごめん、ちょっと一息いれよう」と私は女の子に申し出た。

「えっ、今はそれどころじゃないでしょう?」と彼女はあきれ顔で答えた。

「僕が思うに、出口はもうすぐだ。ここらで一息ついても問題ないよ。それに昨日の夜から飲まず食わずだ。正直ガス欠だ」

「もう、しょうがないわね」と彼女はしぶしぶ同意した。

 我々は、自販機で飲み物を買い、中央のソファーに腰かけた。少し前まで、硬い荷台や床の上に放り出されていたためか、ソファーの包み込むような感触が心地良かった。私は缶のプルタブを開け、コーラを口に流し込んだ。水分が渇いた全身にしみこむような感じがした。前に飲み物を飲んだのが数年前のことのように思えた。女の子も私と同様に飲み物を飲みながら安堵の表情を浮かべていた。やはり、ここで休憩をとって良かったのだ。

 私は目をつぶって昨日からこれまでのことを考えた。夏木医師からの予言。そして、彼女の突然の失踪。娘からのSOS。得体の知れない連中との出会い。物置への監禁。天井裏の徘徊。巨大な冷凍墓場からの脱出。信じがたいことだが、これらすべてが、昨日からの短時間で起こったことだった。そして、そのすべてがあまりにも私の日常からかけ離れていた。私は運命の急流が作る巨大な渦に巻き込まれているのだと思った。私ができることは手足をばたつかせて溺れないでいることがせいぜいだった。この先どうなるのか検討もつかない。この渦に巻き込まれたら、私はどうなるのだろう?生きて戻れるのだろうか?そもそも、麻里子のいない世界に生きて戻ったとしてどうするというのか?そのような世界に生きて戻るほどの値打ちはあるのだろうか?もしかしたら、この激流に身を任せて行きつくところまでいくべきなのかもしれない

「おい」

私が遠ざかる意識の中で考えていると、遠くから何者かが語り掛けてきた。きっと空耳だろうと思い、私はその声を無視した。

「おい」

しばらくすると、また声が聞こえてきた。捨て置け、気のせいだ、と自分に言い聞かせて私は声を無視し続けた。

「おい、起きろ」

誰かがしつこく私を呼んでいる。しかも声は先ほどよりも大きくなっていた。

「うるさい。いい加減にしてくれ」と私はいら立ちながら答えた。

「何寝ているんだ?さあ、お目覚めの時間だ。起きろ」と誰かの声がなおも続いた。私は、この声に聞き覚えがあることに気付いた。私の記憶によれば、声の主はあまり歓迎できない種類の人物だった。この声を無視しては自分の身に危険が起こる予感がした。私は静かに目を開けた。

「災難の渦中で朝寝か?あんた、いい度胸してるじゃねえか」

目の前にいたのは顎鬚だった。彼は新手の部下を引き連れていた。彼らは警察の特殊部隊のように黒い戦闘服とヘルメットを身に着け、サブマシンガンの銃口を我々のほうに向けていた。しかも、同じ格好の戦闘員が5人もいた。となりに座っていた女の子も恐怖で声が出せないでいた。

万事休すだった。この状況では逃れようがなかった。

「どうしてここがわかった」と一応、顎鬚に聞いてみた。聞いたところであまり意味がないかもしれなかったが。

「そりゃ、当然分るさ。逃げ道は俺たちが作っておいたからな」と彼はそう答えた。

「逃げ道を作った?僕たちは偶然鍵が開いていた扉から天井裏に入ったんだ」と私は彼の発言に反論した。

「その鍵なんだがな。俺たちが事前に外しておいたんだがな」と彼は、意地の悪い笑みを浮かべながらそう言った。

私が幸運にも見つけたと思っていた天井への入り口は、実は故意に鍵を外されたものだったようだ。これは我々の脱出劇が彼らに仕組まれたものだったということを意味していた。

私はなぜか笑ってしまった。内心は怒りや徒労感の入り混じった感情が渦を巻いていたのだが、なぜだか私の表面に現れたは笑いだった。人は感情の処理に困ったときは笑うものらしい、と私は思った。

「個人的に試したかったんだよ。あんたを」と顎鬚は言った。「上が会いたいっていう奴がどれほどのものかってことをな。あんたらが、あの仕掛けに無反応だったら不合格だったね」

「不合格ならどうなってた?」私は彼に尋ねた。

「上に会わせるまでもなくあんたを始末する予定だった」彼は表情を変えずにそう答えた。そして彼は続けた。「しかし、仕掛けに気付いてうまくここまでやってきた。まあ、及第点ってとこだな」

「不合格でなくて良かったよ」と私はそう言った。無論、この点については嘘ではない。私は不合格となった自分を想像して恐怖を覚えた。そして彼に再び尋ねた。「僕たちはこれからどうなるだ?」

「何度も言うように、我々の主にあってもらう。まあ、それまで、待合室で待ってもらう。鉄格子付きのな」と顎鬚は言った。そして、彼は顔を私に近づけて言った。「今度は、逃げようなんて気は起こさせないからな。分っているだろうな」

「逃げてやるさ。どんな手を使っても、このハゲ野郎」と私は彼の目を睨んでそう言った。

「あっ、今なんて言った?」

「ハゲって言ったんだよ」

顎鬚の顔がみるみるうちに怒りで紅潮し、額には血管が浮き出た。彼に髪のことをいうのはタブーだったらしい。

「このガキゃあ、頭のことだけは許せねえ!」

 次の瞬間、ごつっ、という鈍い音とともに、私の目の前に火花が走った。そして、私の額のあたりに強烈な痛みが走った。

頭が割れて、脳漿が流れ出しているような気がした。私は溜まらず頭を抱えてうずくまった。顎鬚が私の頭に頭突きをしたのだった。

「調子に乗ってんじゃねえぞ!」と顎鬚は悶絶する私を見下ろしながら言った。

「ちくしょう痛いじゃないか」と私は声にならない声で答えた。

「おい、お前ら、こいつらを一人ずつ独房にぶち込め」と彼は戦闘服の部下たちに指示を出した。部下たちの一人が私の両腕を後ろの方で羽交い締めにした。私は強烈な頭の痛みのせいでそれを拒否することもできなかった。

私が背中で手錠をされようとしていたまさにそのときだった。

「やめなさい。大切なお客様ですよ。もっと丁重に扱いなさい」

廊下から一人の男がそう言いながら近づいてきた。

 彼を見るや否や、顎鬚と部下たちの態度が一変した。彼らは私と女の子に銃を構えるのを直ちに中止し、その場で背筋をのばして直立不動となった。そして、男に向かい敬礼をした。

 私たちは、状況の変化を理解できず呆然としていた。少なくとも言えることは、再び監禁されることを免れたらしいということだった。

「あなた方は何をしているのですか?彼らは大切なお客様ですよ」と男は顎鬚を問い詰めた。

「彼らがここから出ようとしたので、致し方なく警備班の者を同行させてそれを阻止しようとしただけです」と顎鬚は男に言った。そして憮然とした表情で続けた。「お言葉ですが、彼らの身柄をどうするかは我々の裁量の範囲内です。我々の任務遂行に不備があったとは思えませんが」

「あなたがたは想像力が欠如しているのではないですか?この方をお連れした目的を考えて御覧なさい。決して身体に危害が及ぶおそれがあることをしてはならない。そのようなことがあれば、臨床データに及ぼす影響は計り知れないのです。今後の試験で間違った分析結果が得られたら、あなた方はどうするつもりですか?」と男は顎鬚の言い訳に反論した。

 顎鬚はそれを無言で聞きながら、直立不動で男を睨んでいた。

「まあ、彼らが無事だったので良しとしましょう。先ほど総裁にお話してこの件は私がすべて引き受けました。あなた方の任務はこれまでです。お疲れ様でした」と男は言って、顎鬚と武装した一団にこの場を立ち去るよう促した。

 顎鬚たちは無言のままその場を退去した。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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