11. 「氷の裸体たち」 小説『レイト・サマー』第5章(中編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 私は、懐中電灯で先を照らしながら、ケーブル類が走るのと平行に天井裏の狭い空間を這いだした。女の子が私の後に続いた。

 空間はひんやりとした空気に包まれていた。空気は微かにカビの臭いがした。辺りはしんと静まり返っていた。私たちの息遣いだけが聞こえた。

「ねえ、あとどれくらい進めばいいの?」と女の子が私に問いかけた。

「わからないけど、あと、数百メートルはありそうだ」と私は答えた。自分でも見当が付かなかったがそうとでも答えるしかなかった。「ところで、君の母さんはこんな変な施設をつくる組織と関わっていたのかい?」

「母の以前の勤め先のことはよく分らなかったわ。ただ単純に、説明するのも難しい研究をやっているところとしか思わなかったわ」と彼女は言った。

「まあ、そうだろうな」と私は言った。夏木医師の研究内容を子供にかいつまんで説明するのは極めて困難な作業のように思えた。

「母は、クリニックを開業するまでは仕事のことはほとんど言わなかったわ。ただ決まった時間に帰って来て、ご飯を作ってくれて、眠る前に絵本を読んでくれる普通の母親だったわ」と彼女は言った。

「母さんとはずっと二人きり?」

「ええ、物ごころがついたときにはね。私には兄弟や姉妹はいないから、ずっと母と二人きりだった。父は私が生まれる直前に事故で死んだって言い聞かされてたわ。でも、ある時私分ったの。父は本当はどこかで生きているわ」

「それは、どうゆうこと?」

「一度だけ、父からクリスマスカードが届いたことがあるの。私が7歳の頃だったわ。私は父には一度も会ったことはないけれど、直観でそれは実の父が送ってくれたものだってわかったわ。死んだはずの父が生きていたって思うと、とてもうれしかった。だから、そのクリスマスカードを学習机の引き出しの奥に入れて大切にしまっていたの。でも、あるときそのカードが無くなっていたの。私は母になぜ無くなっているのか問いただしたわ。二人暮らしだから、引き出しから持ちだせるのは母だけだもの。そしたら、母が泣き出したの。『ごめんね、ごめんね』っていいながら。父と母の間に何があったか知らないけれど、それ以来、母とは父の話はしていないわ」

「ごめん、何だか聞いちゃまずいことを聞いたみたいで」

「ううん、別にいいの」

 それからしばらく、私たちは無言のままで暗い天井裏を這い続けた。暗闇に目が慣れてきたせいか、ケーブルや柱の表情が詳細に見えてきたような気がした。ケーブルが乱雑にまとめ上げられている箇所や、柱にチョークで数値が殴り書きで書かれた箇所があちこちに見られた。この施設が突貫工事で出来上がっているが伺い知れた。こうして進んでいるうちに、はるか前方に微かな光が見えてきた。

「出口はもうすぐだよ。きっとどこかに繋がってる」と私はにわかにこころを躍らせながら女の子に言った。

「本当に?よかった。このまま一生暗闇をハイハイし続けなければならないかと思った」と彼女は言った。その声には少しだけ安堵が感じられた。

 光がだんだんとはっきりしたものになった。この光は大きな空間の巨大な照明施設から発せられるもののようだった。

 私たちは、ついに長い天井裏の空間から抜け出た。

そこは、サッカーコートが2、3個入るようなとても巨大な空間の天井であった。巨大な照明灯が整然と並び、下の空間を照らしていた。天井と言っても、さきほどと比較にならないほど広かった。人が十分に立って歩ける高さがあり、鉄網状の通路が碁盤の目のように照明灯の周囲を取り囲んでいた。

 私は、天井から広い空間を見渡した。一面にステンレス製と思われる筒状の物体が縦に置かれて並べられていた。筒は直径1メートル、高さ3メートル程であり、ちょうど人が一人入るようなサイズだった。このような筒が百本ほど並べられており、それぞれの筒には配管が施されていた。それぞれの筒には配管により極低温の液体か気体が供給されているらしく、配管のいたるところから冷気が漏れ出て、白く床を這っていた。

「なんだこれは」と私は思わず呟いた。

 空間の片隅、つまり、私たちが居る側と反対側の一角には、作業スペースがあり、白い作業着姿の七、八人程の作業員が何か作業をしていた。全員フードとマスクをしているので彼らの表情を伺うことはできなかった。

作業員の中の二人は大きなバットに入れて氷水に漬ける作業をしているようだった。私はバットの中に目を凝らしてみた。人の手足が見えた。氷漬けにされているのは間違いなく人体だった。頭部に口へのチューブと一体になったようなゴム製の保護マスクをかぶせられた三十代ぐらいの痩せた男性が、体中にカテーテルを繋がれ、砂利氷の中に沈められていた。

 そのすぐそばには、全裸の人体が三体、台の上に横たえられていた。作業員の一人がそれぞれの体の瞳孔を確認していた。すでに彼らの意識はないようだった。彼ら顔はいずれも驚きとも苦悶とも言えないような表情で固められていた。贔屓目に言っても安らかな死に顔とは程遠かった。

「あれは死体だよな?」と私は震える声を殺しながら女の子に話しかけた。女の子は黙って頷いた。

 私たちは彼らが必死に隠し通そうとしているものを眼前に見ているのに違いなかった。おそらく、彼らは死体を冷凍保存しようとしていたのだろう。どこから死体がやってくるのか、また、なぜ冷凍保存しなければならないのかはわからなかった。しかし、この光景を見た以上は、我々の身は無事では済まないであろうことは容易に想像できた。

 しかし、我々はここで驚いてばかりはいられなかった。我々の当面の目的はここを抜け出すことだ。一刻も早く出口を探さなければならないことには変わりがなかった。私はここで天井を見上げた。床からここまですでに10メートルはあったが、天井までさらに3メートルはあった。天井には抜け出せるような穴はなく、また、そこまでよじ登る手段がなかった。であれば、我々は下に降りるしかなかった。私は下に降りる手段がないか、辺りを見回した。すると、我々が立つ側と向かい側の端に鉄製の梯子があるのを見つけた。グレーチングの通路をそのまま歩いて行けばそこにたどり着くのは容易そうだった。しかし、梯子の周囲に身を隠す場所はなく、しかも、作業スペースのすぐ目の前に備え付けられていた。仮に作業員が上のほうに目をやったとすると我々の姿は丸見えであった。彼らが作業中に動くのは危険すぎた。

 私が他に下に降りる方法はないかと思案していたところ、作業員の一人が声を上げた。

「そろそろ休憩にしよう」

彼がそう言うと、他の作業員は手を止め、すぐ傍の通用口に向かい歩き出した。そして、作業スペースには人がいなくなった。

「よし、今だ。とにかく下に降りよう」と私は言った。そして、女の子を連れて梯子のほうに向かった。

我々が鉄製の通路の上を歩く足音が空間中に広がった。私は作業員に気付かれないか少し心配だったが、幸なことにだれも戻ってこなかった。我々は、一歩ずつ慎重に梯子を下り、床に降り立った。私たちはここで辺りを見回した。ここから出るには、作業員たちが出て行った通用口に出るしかなさそうだった。私たちは、スチールの棚に並べられた意識のない人体を脇目に通用口に入った。

通用口の先はひどく曲がりくねった狭い廊下になっていた。見通しが悪いため、角の向こうに人が潜んでいないか気が気ではなかった。我々は角に近づく度に息を殺して角の先を確認した。いくつか角を曲がり先へ進むと、我々は奥の広い部屋に出ることができた。

部屋は更衣室のようだった。部屋の一角にはスチール製のロッカーが整然と並べられていた。また、別の場所では作業員が脱いだ作業着がまとめてハンガーに掛けられていた。

部屋の通用口側とは反対の出口はガラスの自動ドアとなっていた。しかし、ドアの脇にカードリーダーが据え付けられており、部外者は出ることができないようだった。

我々がここを出るためには、ここの関係者のIDカードを探さがして、カードリーダーに読ませなければならなかった。私は手当たり次第、ロッカーの扉が開かないか確認したが、どれも鍵がかけられていた。次に作業員たちが脱いでいった服も確認したが、カードは付けられていなかった。全員この部屋を出て休憩に向かったからそれは当然だった。

「ちくしょう!」

私は、思わずロッカーを蹴った。鈍い音が部屋中に広がった。ここであきらめたくはなかった。しかし、ここを出る術がなかった。私は宙を見上げた。

「考えましょう。きっと手はあるはずだわ」

女の子がそう言って私に寄り添った。私は何か手はないか考えなければならなかった。彼女のためにも。

そのときだった。何人かが歩いてこちらに向かう足音が聞こえてきた。作業員の誰かがこちらに近づいているのに違いなかった。先ほどロッカーを蹴ったのがまずかった。彼らは私が発した物音を不審に思ったのだった。

「まずい、隠れよう」

私は隠れる場所を探した。更衣室の一角がカーテンで仕切られていた。我々はそこに身を隠すしかなかった。

「なんだ、さっきの音は?」と部屋に入ってきた作業員の一人が言った。彼はリーダー格のようだった。

「何かがロッカーにぶつかったような音でした」と別の作業員が言った。

「部外者が勝手に中に居るんじゃないのか?」とリーダーが言った。

「班長、誰も見当たりません」と部下が答えた。

「いや、絶対誰か居る」とリーダーは言って、部屋中を見回して精査した。

 彼はきっと我々のほうを見ている。―そう思うと私は心臓が口から飛び出しそうに思えた。私はただ、彼らが我々の存在に気付かないことを祈った。

「ん?あのカーテンの裏にだれか居るな」とリーダーは言った。

祈りは通じなかったらしい。リーダーは我々の方を指さしたようだった。我々はカーテンの外に出るしかなかった。

「君たち、誰?」とリーダーは我々を鋭くにらみながら言った。

ここは、どう答えるべきか、と私は言い訳を考えた。ここは何を言っても嘘くさかった。私は黙り込むしかなかった。

すると、私のとなりで女の子が突然口を開いた。

「私たち、アルバイトなんです。新薬の被験者にならないかって言われて。でも、何処に行ったらいいのかわからなくて、さっき近くを歩いている人に聞いたらここに通されたんです」

無論、全くの思い付きだった。そんなことを言ったら、余計状況が悪くなるに違いなかった。案の定、リーダーは動じず、我々に刺すような視線を向けたままだった。

重い沈黙がしばらく続いた。

「班長、そういえば」と作業員の一人が口を開いた。「今日から新薬開発セクションが投薬実験をやるって言ってました。それで、今日、アルバイトが10人くらいくるって」

 私はあっけにとられた。まさに、嘘のような偶然だった。

少し間があったが、リーダーは承知したようだった。

「君たち早くここを出て行って。誰が案内したか分らないけど、ここは部外者以外立ち入り厳禁だからね。ここを出てずっと左側にエレベータがあるから、それで地上1階に戻って。受付はエレベータを下りてすぐ右側にあるから。わかった?」と彼は私たちにここから退去するよう促した。

 彼の部下の一人がIDカードをカードリーダーにかざしてドアを開けた。そして、我々はすぐさま部屋の外に追い出された。これは全くの幸運だった。外に出た我々は、ひとまずエレベータがあるという左側に向かった。

 

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、性多様性研究家、クロスドレッサー、元グラフィックデザイナー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。 それと、猫やコツメカワウソの動画を見て、ホッコリするのが好き。

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