わたし自身の「月」に捉われていたもの

みなさん、ご無沙汰しております。久しぶりの投稿です。

今日は非常に重要な気付きがありました。
忘れないうちにブログに記しておきたいと思います。
この問題自体は、私のプライベートにかかわる非常に繊細な問題なので、書くのが非常に躊躇われるのですが、書くことが誰かの勇気づけになるかもしれないと思うので、あえて書くことにいたしました。

わたしは、最近、西洋占星術の大家のマドモアゼル・愛先生の月理論に感銘を受けまして、勉強をしているのですが、わたし自身の自己分析にも活用させていただいております。

わたしのホロスコープでは、「月」と「太陽」が両方ともかに座に位置しており、「合」というアスペクトを形成しています。いわゆる「新月」にあたります。

また、ハウスにおいても、「月」と「太陽」の両方ともが8室に位置しております。

占星術に詳しい方ならご存じかと思いますが、8室には、「遺産」とともに、重要な象徴的事象があります。それは、「セックス」や「性的なもの」です。

実は、これがわたしの苦悩の原因となっていたのです。

わたしは肉体的には男性ですが、この点では早熟だと思っていましたし、かつてはこだわりが強い方でした(あまり認めたくはないですが)。しかし、本当は何も分かっていなかったのです。

この点の自己イメージは、占星術上の「月」に由来するものです。
マドモアゼル・愛先生の月理論によれば、「月」は「能力の欠損」であり、「月」のフィルターで理解した自己イメージは7歳前後の理解力で捉えたものに過ぎません。言い換えると「純粋なお子様レベル」の理解なのです。

さらに厄介なのは、この子供レベルの理解力で認識したセルフイメージを、あたかも自己の本質的なイメージと「月」に誤導されてしまうところです。これが、「月」の狡猾なトリックであり、わたしたちにときに命を絶つことを強いるような苦悩を与えるものなのです。

わたし自身も「月」にまんまと騙されていました。
そうとも知らず、わたしはいろんな方とそういう関係を重ねて来ました(近頃はすっかりその方面とは疎遠になっていましたが)。女性とも、男性とも。
でも、ずっと「何かが違う」という違和感がありました。自ら望んで、そのような肉体的な愛を求めることを繰り返していたのですが、身体が辛いだけで、得るものも乏しいものでした。いつも、拭い難い不毛感と隣り合わせでした。

そして、そのことを今日思索していたところ、気付いたのです。「わたしは、セックスについては、それほど好きではなかったのではないか?」と。

これは、人生にそう何回もないような大きな気付きだと思っています。これは、わたしのすべてではないにしても、セルフイメージの大きなの要素の一つに、コペルニクス的転換が訪れたことを意味していました。「こんなしんどいことは、もうやらなくていいんだ」と思えば、これはひとつの救いになります。

「それでは、わたしをそのような大きな”勘違い”に導いたものは何なの?」とわたしは考えましたが、それこそ、「月」に他ならないと気付いたのでした。

わたしは子供が母親に甘えるように、優しさに包まれたかっただけなのでした。甘えん坊の「引っ付き虫」になりたいだけなのでした。それを、愛を求め続けることが、わたしの本質的目的であるかのように、これまで誤解していたのでした。「月」の仕業によって。

「知ったが終い」というように、気が付いてしまった以上、あとには戻れません。わたしは、誤解により人生の半分以上を誤った方向に進んでいましたが、これからは、大きく道を誤ることはないと思います。これは先生からいただいた大きな福徳だと思っています。

仏教の「解脱」は、文字通り、「解って脱する」ということができますが、今回の気付きで捉われの原因を理解して、抜け出すきっかけを得たのだと思います。そういう意味で「解脱」が一歩進んだのではないかと思います。

ただ、もう一つ考えなければならない点として、わたしの「太陽」も、月と同じく8ハウスにあるという点です。
この点については、また改めて考察してみたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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