私という性を生きる

こんばんは。Ricoです。
私が本格的に女装を初めてもうすぐ7年が経とうとしています。
気が付けば、ベテランと呼ばれてもおかしくないようになりました。

この7年を振り返ってみて、私は女性そのものになりたくて女装していたかというと、そうではないような気がします。
もちろん、私の心の性は女性じゃないかと思った時期もありましたが、どうやら少し違うようです。かといってそれほど男性的でもありません。むしろ自分が男性であることへの嫌悪感を感じてきました。


私の性別は?と聞かれると、男でもなく女でもない。私という性としか言いようがない。


男女どっちつかずなのが私という性。仮に性転換手術をして、戸籍も変更して、正真正銘の女性になっても多分、私は何かが違うと思うことでしょう。私はどっちでもないあり方に私は面白みを感じています。
どっちつかずが自分の本質。そんな自分自身の本質に戻るために女装していたと言えます。

人は男か女かのいずれかである。そんな二元論的な発想がある種の苦しさを産んでいるような気がします。いわゆるLGBTの問題も、性自認や性指向を男女どちらかに向いているか、あるいは分類不可かという二元論的な発想に基づいて人の性の問題を分類しているようであまり好きにはなれません。

LGBT的な分類は学者や管理者の発想です。当事者の発想ではありません。
当事者は自分自身に無理矢理レッテルを張らなくてもいいのではないかと思います。

スローガンには乗せられずに、ただ静かに生きたい。多くの当事者はそう思っているのではないでしょうか。

まわりにそういう存在がいたら、どうか温かい目でそっとしてあげてください。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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