わたしは優しくありません

前回は、わたしのホロスコープの8ハウスに「月」と「太陽」が同居しているということをお話しました。いわゆる8ハウスの「新月」です。

わたしのホロスコープは、また、かに座の「新月」でもあります。

マドモアゼル・愛先生は、「月の生き方ではなく、太陽の生き方を」と説いているのですが、わたしのような「新月」は、「月」と「太陽」をどう理解してよいのかいまいちわかりませんでした。自分の性質のどこが「月」のかに座で、どこが「太陽」のかに座がよくわからない。

これについてはしばらく悩みました。

わたしの今のところの考えは、多分、世間体を気にしている、「べき論」にとらわれているあたりがかに座なのだろうということです。

「べき論」とは、たとえば、「人は誠実である”べき”である」とか、「人は良識的に振る舞う”べき”である」とかいうときの”べき”ですね。

ところで、「べき論の悪魔」という言葉を聞いたことはあるべきでしょうか?「人は~である”べき”だ」という一種の脅迫的な理想論は、ときに人を追い詰めます。「~しなければならない」というのも同じですね。

わたしの職場は、とにかく細かいルールにうるさいです。「~の作業は手順書の定めるとおりに履行されなければならない」とか、「~のときは、上長にすぐ報告し、指示をうけなければならない」とか、そういうたぐいのルールですね。

ルールがうるさいだけなら良いのですが、「批判した者勝ち」のような悪しき企業文化がありますね。「なんでもいいから提案しろ」と会社の偉い人たちに言われてプレゼンしたら、「ここは~すべきだ」とか、「ここは~するのが常識だ」とか、社員をこき下ろして自分の権威を見せつけるという人ばかりです。一種のモラルハラスメントですね。

こういう職場なので、精神疾患者が毎年一定数出ます。彼らはいわば、「べき論の悪魔」の犠牲者ですね。

わたしも、このような「べき論」にかつては捉われていました。結婚はできなかったので、「よい夫である”べき”だ」はないのですが、「よい息子である”べき”だ」とか、「よい社会人である”べき”だ」とか、「人情味あふれる人間である”べき”だ」とか、「良識的な人間である”べき”だ」とか、世の中にある様々な”べき”の間で苦しんでいました。

ここで「月」の話になるのですが、実は、「月」に気付く5年くらい前に、こういう生き方に限界を感じ始めていました。このままでわたしの心は死んでしまうと。

その辺は以前の記事に書いています。
https://mirror.room-of-rico.net/6-shinikaketa-kokoro/

わたしは、少しずつ、「~であるべきだ」という考えを捨て始めました。苦労して取った資格で開業すべきだという考えも捨てましたし、所帯を持って、マイホームを買って人並みの幸せを追い求めるべきだ考えも捨てました。

すると不思議なもので、そういうものを捨てるごとに、心が軽くなりました。むしろ幸福に近づいた気さえしています。

そうした中で出会ったのが、愛先生の「月」理論。わたしがやってきたことは間違っていなかった、今はそう思っています。

さて、わたしはかに座の「新月」であることは冒頭にお話ししました。「月」に捉われることをやめたのはよいのですが、かに座的な「太陽」を獲得することについてはまだ理解しきれたわけではありません。

今のところ、志を同じくする仲間を見つけて、かたちにとらわれない、家族的な関係を作れたらいいなと漠然と思っています。一種のゲマインシャフトといっていいでしょうか。

あるいは、好きに人を愛し、その愛した人を守る、といった生き方をしてみたいなとも思います。かたちにもとらわれず、性別にもとらわれず。

「太陽は言い訳をしない」と言います。これが太陽のかに座なのだろうと思っています。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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