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私のなすべきことは明確だった。麻里子を失ったあの場所へ帰ること、そして、麻里子と再び一つになること、それだけだった。この「世界」に実存する「あの場所」へ戻ったとしても、麻里子に会える保証は全くなかったが、私の直観は麻里子に再び会えることを確信していた。そして、私はその直観に従うことにした。
たしかに、老人が言ったように、私が麻里子と会うことがこの「世界」の終わりにつながることを意味するかもしれなかった。しかし、仮にそうなったとしても、私は自らを突き動かす衝動に抗えそうもなかった。
ただ、心残りが全くないわけではなかった。
私は夏木医師には自らの決心と感謝の気持ちを伝えておきたいと思った。そして、彼女の娘にもそれを言っておきたかった。なぜなら、彼女たちの助けがなければ私はここに至ることが出来なかったからだ。
しかしながら、私のこれからの行動により、この「世界」の住人である彼女たちも消えてしまうことになることについては胸が痛んだ。私の思いのために彼女たちの生を犠牲にしていい道理はあるはずがなかった。そして、そのことを彼女たちに伝えるかどうか迷っていた。
気が付けば、私の足はひまわりクリニックに向かっていた。私は晩夏の夕暮れの中で通いなれた石畳の坂を登った。
私はクリニックの前で足を止めた。そこは数日前と変わらない佇まいだった。ただし、明かりは灯っておらず人気はなかった。アーチの外門には張り紙が貼ってあり、張り紙には「都合により閉院いたします。これまでご愛顧いただき、誠にありがとうございました」と書かれていた。
夏木医師はクリニックの廃業を決めたようだった。それは現実的に仕方がないことだった。組織の連中に設備をめちゃくちゃにされ、とても危険な目に遭ってしまったのだ。そのことは私のことに起因していた。私がこの「世界」にとって極めて不都合であるため、私の関与者として彼女たちを渦中に巻き込んでしまったのだ。
もし、私がこのクリニックのことを知ることもなく、また、私に会うこともなかったら、彼女たちは診療を続けていたことだろう。廃人同然の患者も数多く出ていたのであろうが、いつかは救済するという確固たる信念のもとに夢見の施術を続けていたに違いなかった。
私の存在がそのような彼女たちの日常を変えてしまった。それが私の意思ではないにしろ、私という存在が変えてしまったことには変わりはなかった。
私は口を固く結び、クリニックの入り口に立ち尽くした。そして、私という存在の身勝手さを腹立たしく思った。
私が存在することによって、彼女たちのような犠牲者が出てしまうのだ。彼女たちだけではない。金崎博士も私が原因で命を奪われてしまったではないか?私はこの「世界」に存在していてはならないのだ。当然、彼女たちに再び会うことも許されるはずがなかった。
私は、所詮この「世界」にとって異質な存在であり、創造者にとっては害悪でしかなかったのだ。ここに私の居場所などなかったのだ。
私はこの「世界」とは決別しなければならなかった。
私は彼女たちに会って話がしたいと考えていたことを恥ずかしく思った。私はクリニックを後にしようとした。
そのとき、私は背後に人の気配を感じた。振り向くと、一人の女が立っていた。それは夏木医師だった。
黒のワンピースを着た彼女は、同じ色の円く大きなつばのある帽子をかぶり、サングラスをしていた。まるでハロウィーンの魔女のような恰好だった。
「そろそろ、あなたが来るころじゃないかって思ってたのよ」と彼女は言った。
「夏木先生。僕のせいで…」と私は言いかけた。
「いいのよ、そのことは」と彼女は言いながら、クリニックの外門を開けて中に私を導いた。「それよりも、少しだけ付き合って。いいでしょ?」
ここで、私の脳裏に老人の言葉がよぎった。私と夏木医師が出会って麻里子と会おうとすれば、未遂であっても我々は彼に消されてしまうのだった。監視の目がどこにあるかわからない以上、こうして顔を合わせて少し言葉を交わしているだけでもとても危険であった。彼女をこれ以上私のせいで危険に晒していいわけはなかった。私は断るべきだと思った。
「いえ、今日は少し挨拶をしに来ただけですから」と私は答えた。
「相変わらず、お堅いのね」と夏木医師は言った。「そのことなら心配しなくていいから、総裁に私たちが会っているって伝わることはないわ。もう手は打ってあるの。とにかく少しお話しましょう」
彼女がどういう手を打っているかわからなかったが、ここは彼女の言葉を信じてもいいような気がした。私は軽く頷き、彼女の後に続いてクリニックの中に入った。
私はクリニックの待合室に通された。待合室は我々が顎鬚たちに連れ去られた日曜日の夜のままだった。おそらく診察室も荒らされたままであっただろう。夏木医師は私に窓際の白く長いソファーに座るようすすめた。
「飲み物はワインでいい?」と私に尋ねた。わたしが軽く頷くと、彼女は奥の台所からグラスを冷えたワインを持ちだし、テーブルの上に置いて私の隣に座った。
「今日は最後の晩餐よ。このクリニックでのね」と彼女はワインをグラスに注ぎながら言った。「私、今までの治療と研究はもう辞めて、東京を離れることにしたの。さあ、乾杯しましょう」
「先生、誰が見ているかわからないですよ」と私は彼女に言った。
「誰が見ているかわからないって?私は知っているわ。見ているのは力石さんの部下たちよ」と彼女は言った。やはり、私が思っていたとおり、私たちを顎鬚の手下が監視していたようだった。
「でも大丈夫。彼とは話をしているから」と彼女は続けて言った。
顎鬚たちも、自分たちがほとんど用済みとなっており、間もなく組織に追われる立場になることを理解していた。今となっては、組織にとって目障りという点で彼らは私や夏木医師と共通であった。成り行きとはいえ、我々は奇妙な同盟関係にあると見てよかった。彼女が話をしてあると言っているのは、我々がそうした関係にあることを見抜き、顎鬚たちに私と会うことを黙認させているということであった。
「そうでしたか」と私は答えながら、彼女の策士ぶりに内心驚いた。
彼女の策によって顎鬚たちが内通しているとすれば、組織の情報網による伝達については、ひとまず安心して良さそうだった。しかし、それだけでは安心するわけには行かなかった。彼は、我々がいつどこにいようが、我々の心の中が自由に読みとれるのだ。現に、私しか知らないはずの麻里子との秘め事を彼は知っていた。仮に顎鬚たちが黙っていたとしても、彼がその気になれば、我々が密会していることはすぐに分ってしまうはずだった。そして、我々が密会していることを知れば、すぐに何らかの邪魔を入れてくる目に見えていた。
だが、この時点で我々は無事である。これは彼がまだ気づいていないと考えるほうが自然であった。彼が気付く前に彼女と別れれば問題はないように思えた。私はしばらく彼女との再会の喜びを分かち合うことにした。
「さあ、乾杯しましょう」
我々はワインが中程まで注がれたグラスを軽く突き合わせた。チンという小気味よい音が待合室に広がった。
我々はしばしお互いに再会できたことを祝福した。一時は死を覚悟していた身であったにもかかわらず、二日後にこうして酒を酌み交わしていることがまるで夢のようだった。
ここで、私は一つ気になっていたことを夏木医師に聞いてみることにした。
「私も一時は間違いなく総裁に殺されるかと思いましたが、なんとか土壇場で気が変わったみたいで命は助かりました。ところで、総裁は私と先生には消えてもらうと言っていましたが、どうして気が変わったのだろうか、と思いました。先生には何か思い当たるところはありますか?」と私は彼女に聞いてみた。
「それは、私が『秘密をばらす』って騒いだからだと思うけど」と彼女は言った。
「先生だったんですか?」と私は思わず驚きの声を挙げた。
そういえば、老人が私を放免する直前、ボディーガードに何かを耳打ちされていた。どうやらそれは、夏木医師が言う『秘密』と関係していたようだった。
「私ね、昔、彼にベッドインすることを強要されたことがあるの。セクハラやパワハラなんて言葉もなかった時だったから、仕方なく彼と一夜を共にしたことがあったわ。でもね、ただやらされるのは嫌だったから、なんとか一矢報いてやりたいって思ったわけ。彼は変態趣味でね。そのときにしっかりそれを写真に撮らせてもらったわ」と言って彼女はハンドバックから数枚の写真を取り出して私に差し出した。
その中の一枚には、裸でオムツをした若いころの老人の姿が映っていた。また、別の写真にはおしゃぶりを咥えてガラガラを持った姿も映されていた。
「これは」と言ったきり、私は絶句した。
無言の私を横目に彼女は事のあらましを話し始めた。
「古い写真だけど、いざというときのためにとっておいたの。研究所を辞めた後もね。私も写真のことはほとんど忘れかけていたけど、その『いざというとき』が最近になってやってきたわ。一ヶ月くらい前に、怪しい人たちがこのクリニックの前をウロウロしているのに気づいたの。とても気味が悪かったわ。そして、力石さんから電話があったわ。あれは、日曜日の朝のことね。私はもうだめだ、と思ったわ。そこで、急いでこの写真と同じものを週刊誌の編集の仕事をしている古い友人に送ったの。私が一週間以内に連絡しなかったら、私がどうにかなっているってことだから、そのときは彼のことを記事にして、ってメモを付けてね。そうしたら、案の定、彼らに拉致されてしまったわ。私、監禁されてとても怖かったから、必死に騒いだわ。『私をすぐに解放しなさい。それと私の娘と桐野さんもすぐに釈放してあげて。でないと、総裁のことが週刊誌の記事になるよ』ってね。彼も自分の恥ずかしい姿を公表されるのは相当嫌だったみたい。すぐに解放されたわ。今後、『夢見の技術』での治療と研究は一切やらないという条件付きだけどね。まあ、執行猶予ってとこね」
私は我々が釈放された理由を聞いて再び驚いた。あまりにも人間的だったからだ。老人は「神」を自称していたが、あまりにもその振る舞いはそれとはかけ離れていた。
「信じてもらえないかもしれませんが、私の前で総裁は『自分は神である』という意味のことを言っていましたが、これでは…」と私は言い淀んだ。
「それ、私にも言ってたわ」と夏木医師は言った。「『お前たちは私の被造物に過ぎない。私の一存でどうにでもなる』ってね。それで、どうして女の体を求めるのかって聞いたら、『これはこの愚かな肉体からの要求である。私の欲するところではない』っていうのよ。馬鹿馬鹿しくて、だれが本気で聴くもんですか」
我々は声を上げて笑った。こんなに愉快な気持ちになったのは久しぶりだった。
「でもね。本当は彼も助けたかった」と急に真面目な面持ちになった夏木医師が言った。
「彼って?」と私は彼女に尋ねた。
「総一郎よ。金崎総一郎。こんなことになるなんて…」と彼女はうなだれながら言った。
「博士は私たちを助けようとした。しかし、それがこんな結末になるなんて…。私も言葉が出ません」と私は言って、すぐさま後悔した。私に彼女たちのことについて何が分かるというのだ。何か言ったところで、その場しのぎの薄っぺらい同情になるだけだった。
「いつかはこんな日が来るかと思ってた。私は何度も彼に組織を辞めるようにお願いしてたのに、彼は『僕のやり方でこの問題を解決する』って言って聞かなかった。でも、こうなる前に何としてでも彼を説得すべきだったと思ってる」と彼女は言った。彼女の表情には悔しさと悲しさが入り混じっているように思えた。
しばらく、我々は無言のままその場に佇んだ。そして、沈黙を破るかのように、彼女が私の肩に頬を寄せて、潤んだ瞳で私を見つめながら言った。「ねえ、甘えてもいい?」
私は静かに頷いて、彼女の潤んだ唇に口づけした。私にできることは、彼女の悲しみを受け止めてあげることだけだった。それを断る理由はなかった。
「先生、僕でいいんですか?」と私は言った。
「先生は止めて。美香子って呼んで」と彼女はその大きな瞳で私を見つめながら言った。
私は彼女の背中に手を回し、ワンピースのジッパーを下して、ブラジャーのホックを外した。
事を終えた後、明かりの消えた暗がりの中で、私たちは裸のままで一緒に毛布に包まり、ソファーでお互いの温もりを感じ合っていた。
「ねえ、あなた。何か言いたいことがあってここにきたんじゃないの?」と夏木医師は私に尋ねた。
「せっかくまたお会いできたんですが、僕もあなたと美和子さんにお別れを言わなければならなくなりました」と私は答えた。
「お別れって?あなたもどこかに行くの?」
「ええ、ずっと遠くに」
「外国にでもいくの?」
「いや、もっと遠くです」
「もっと遠く、って?」
私は、事のすべてを夏木医師に説明した。幼い日の麻里子との別れのことも、夢の中での再会のことも、彼女とは再び一つになると決心したことも、場合によっては、麻里子と新たな世界を創造し、その結果として、この『世界』ごと夏木医師や彼女の娘が消えてしまうかもしれないことも。
「嘘みたいな話ですけど、これはすべて本当のことなんです。信じてもらえますか?」と私は夏木医師に言った。
「あなたがいうのだから、それは真実なんでしょうね」と言って、夏木医師はしばらく何かを考えた。そして続けて言った。「でも、この『世界』と一緒に私たちが消えてしまうというのは少し違うんじゃないかしら?」
「違うって?」
「私たちが消えるってことはないと私は思うの。もちろん、あなたが私たちのことを忘れなければの話だけどね。存在の仕方はどうであれ、私たちはあなたの世界のどこかで暮らしているはずよ」
「そうだとうれしいけど」
「きっとそうよ。根拠はないけいど、直観的にそうだと思うの。それよりも、これはあなたにとって避けられない運命よ。受け入れるしかないわ。私たちはどうなってもいい。麻里子さんと一緒になって。そして、新しい世界に行くのよ」
「美香子さん、実は僕、とっても怖いんです。麻里子と一つになれば、これまでの自分が自分で無くなるようで…」
「大丈夫よ。これからどうなっても、あなたはあなたよ。私たちもすぐ傍にいるから」
私は彼女にすがりたい気持ちになった。そして、気が付けば彼女の乳首に口づけしていた。
「こまった子ね。抱っこしてあげるわ」
私は夜の闇の中で、彼女の愛に包まれた。
朝になった。私は行かなければならなかった。
夏木医師はバスローブ姿でエントランスまで見送りに来てくれた。
「これまで本当にありがとうございました。美和子さんにもお伝えください」と私は彼女たちに感謝を伝えた。
「ええ、必ず。彼女は私の知り合いの開業医のクリニックに就職が決まったから東京に残るわ。もし、あなたが東京に戻ることがあれば、また会えるかもしれないわ」と彼女は言った。
「ところで、先生はどちらに行かれますか?」と私は尋ねた。
「山梨県の北杜市というところよ。二年前に別荘を買ってあったの。富士山が見えるいいところよ。これからは、研究のことは忘れてガーデニングでも楽しみながら生きてゆくわ」と彼女は答えた。
「うらやましいな」と私は答えた。これは単なるお世辞というわけでもなかった。私も運命が許すなら平和な暮らしをしていたかった。
「わかっていると思うけど、あなたの旅はこれからが本番よ」と彼女は言った。
「そうですね。では、そろそろ行きます」と私は別れを切り出した。
「わかったわ。でも、さよならは言わない。きっとまた会えると信じているわ」と彼女は言った。
「わかりました。それでは、また」と言って、私はクリニックを後にした。
私が坂を下りる途中で振り返ると彼女が手を振っていた。私もそれに応じて彼女に手を振った。
私は何度も振り返り、彼女に手を振った。それは、私が小雨で濡れた石畳の坂を下りきり、クリニックが見えなくなるまで続いた。