18. 「記憶の中の少女」 小説『レイト・サマー』第8章(後編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 私はいつもの少女が現れる夢を見た。

しかし、今回見た夢は普段とまるで違うものだった。何かを象徴するような具体的な物語らしきものが感じられたし、感覚の明晰さはこれまでと一線を画すものだった。正確には、これは夏木医師が見せてくれた「夢」と同種の仮想現実といったほうが適切かもしれない。

 私は時間をさかのぼり、アニメのTシャツと半ズボン姿の七歳の男の子に戻っていた。そして、ある洋室のベッドの上に寝転がって飛行機の図鑑を読んでいた。そこは見覚えのある部屋だった。そう、そこは麻里子の部屋だった。私と麻里子が情事を重ねていたあの部屋だった。

 そこへ白いワンピースを着た一人の美しい少女がテディ―ベアのぬいぐるみを抱えて入ってきた。彼女は存在しないはずの私の双子の妹だった。このとき私はなぜかそれが分っていた。妹は、私に一緒にままごとをしよう、と誘ってきた。しかし、私は図鑑を見るのに夢中だったので、後で、とぞんざいに答えた。

 私に相手にされず、退屈した妹は、暇に任せて部屋のチェストや机などの引き出しの中を探り始めた。そして、鏡台の引き出しの中に化粧道具を見つけた。

 化粧道具を見つけた妹は、母親の見様見真似で顔に化粧をし始めた。そして、「お兄ちゃん、きれいになったでしょ」と私の前で気を引こうとした。

 私はうるさい、と言うつもりで彼女の顔を見て驚いた。しかしそこで、私は彼女の顔にそれまでに見たことのない輝きを見てしまったのだった。たしかに、化粧の仕方は稚拙だった。ファンデーションは塗りムラがあり、ルージュも唇から大分はみ出ていた。しかし、それでも十分に輝いていた。

 そのとき、私は衝動にかられた。子供だった私の心の中にはそれに抗うものはなかった。ごく自然なかたちで「僕もきれいになりたい」と妹にねだった。妹はにっこりとした表情で頷き、私を鏡台へと誘い、私の顔にファンデーションを塗り、ルージュで唇を赤く染めた。

 鏡の前の私は妹と同じ輝きを放っていた。私たちは自分たちが光の世界からやってきた天使のようになったと喜んだ。そして、生まれたままの姿になってベッドの上で抱き合い、お互いの温かさとつるりとした肌の感触を感じた。私たちはお互いの存在を慈しみ、無上の満ち足りた一時を過ごした。

 しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。

穏やかな静寂を切り裂くように、私の父親が部屋に入ってきたのだった。

そして、「お前は何をやっている?男のくせに!恥を知れ!」と憤慨して私を自らの前に直立させ、私の左側の頬に大きな平手の鉄槌を打ちおろした。私は、数メートルも突き飛ばされるような衝撃を受けて、その場に倒れ込んだ。

 父親はさらに、「お前は誰だ!うちの息子から離れろ」と言いながら、泣き叫ぶ裸の妹の手を引いて部屋から連れ出した。

 私は勢いよく閉じられたドアを開けて妹を追いかけようとした。しかし、ドアが開かなかった。どんなに押そうが、どんなに引こうがドアは私の力ではびくともしなかった。ただ遠ざかる妹の泣く声だけが聞こえていた。私はドアを全力で叩きながら言葉にならない叫びをあげた。しかし、妹の声はさらに遠ざかり、ついに聞こえなくなってしまった。

 その一方で私の体に変化が起きた。体がむくむく大きくなり、身長二メートルぐらいの巨躯になった。そして、私の体のいたるところに毛が生え体中を覆った。私の皮膚の角質は硬くなり、ブツブツとした突起物だらけになった。また、口元からは鋭い牙が露出し、額には鋭く硬い二本の牛のような角が生えた。私は醜い野獣へと変身したのだった。

野獣となった私は言葉を発することができなくなっていた。ただ、暗転した部屋の中でいつまでも地鳴りのように咆哮していた。 

 私は目が覚めた。

体のいたるところを手で触った。ふさふさとした長い体毛はなかった。いつものがさついた肌触りだった。私はようやく先ほどまで見ていたものが夢であったと理解した。

「よかった、目が覚めたんですね」とマスターが声を掛けてきた。「何度も起こしたんですが、全然起きなくて、一時は救急車を呼ぼうかと思いましたよ」

「すみません。いつの間にか寝てしまって」と私は言った。

店内の大きな壁かけ時計を見ると、三時四十五分を指していた。前に見たときは、まだ十時を回っていなかった。随分長く眠っていたらしい。

「あの、すみません。そろそろ閉店時間でして…」とマスターは申し訳なさそうに言った。

 私は勘定を済ませて、すぐに店を出た。

 

 その後、どうやって家まで帰ったか全く記憶がない。私は相当に酔っていたらしい。次に意識が戻ったのは自宅のベッドの上だった。

 時間は朝の十時をすでに回っていた。

私はベッドから身を起こそうとしたが、体がさび付いたように動かなかった。また、天井がぐるぐると回転し、胃が鉛で満たされたかのような不快感に覆われていた。つまり、ひどい二日酔いだった。

しばらく、ベッドで苦しんでいると、胃から酸っぱい感覚が突き上げてきた。これはいけない、と私は思った。私は急いでトイレまで這って、便器を抱えるようにへたり込んだ。そして、私は嘔吐した。胃から食道にかけて不快な感覚が支配した。反吐が更なる反吐を呼ぶかのように、私は朦朧とした意識の中で何度も吐いた。私はすべての水分を排出して、このまま干からびて死んでゆくのではないかとさえ思った。それも悪くない。麻里子を失った残りカスのような私には、そのような死に方がふさわしいのかもしれないと思った。

しかし、私の肉体はそうは思っていないようだった。ひとしきり吐いてしまうと、私の体は落ち着きを取り戻した。私はふらつきながら再びベッドで横になった。

仰向けになり、天井を見上げるとぐるぐると回っているような感じがした。酔いはまだ抜け切れていなかった。これほどまでにひどい二日酔いは、これまでにほとんど経験したことがなかった。私は酒の嗜み方を心得ていると自認しているつもりだったが、実際はそうではないことを痛感した。

私は覚醒とまどろみの狭間で昨夜の夢のことについて考えた。

夢の中で私はたしかに麻里子の部屋にいた。私が認識した限りでは、部屋の細かいディテールや雰囲気は全く同じだった。麻里子はそこに居なかったが、もしかすると、夏木医師の手助けなしにあの場所にたどり着いたということにはならないだろうか、と私は考えた。

そして、あの少女は誰なのだろうか、と思った。私には十歳も歳の離れた弟は一人いるが、双子の妹などいないはずだった。しかし、夢の中では彼女が双子の妹であると事実を自然に受け止めていた。また、彼女は自分にとってかけがえのない存在であり、また、失ってはならないものであると思っていた。

結局、彼女は私の意識が作り出した虚構であると言えばそれまでなのだが、父親が私に平手打ちをしたことだけは現実に起きた事実だった。それがいつ、どこでだったかは思い出せなかったが、私が母親の化粧品でメイクのまねごとをしたときに父親から叩かれ、ひどく叱られたときのことははっきりと記憶していた。そのときの父親の凄まじい怒気を忘れることができなかった。しかし、夢の中で父親が妹を連れ出したことと、その後私が醜い野獣に変身したことは何を意味していたのかは分からなかった。

そのようなことを考えているうちに私の意識はまた深い眠りに落ちた。

次に目を覚ましたのは、午後四時過ぎだった。このときには気分がずいぶん良くなっており、吐き気はすっかり無くなっていた。胃腸の中のあらゆるものを吐き出したせいか、ひどく腹が減っている。

私はベッドから起き上がり、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中には、ペットボトルのお茶、缶ビール、先週コンビニで買ってきた賞味期限切れのサラダ、それとプロセスチーズぐらいしかなかった。何か食べるものを買わなければならなかった。

私は二日ぶりにシャワーを浴び、買い物をするために外に出た。

私が住む部屋のある路地を数十メートル歩くと、商店街に出ることができた。商店街の狭い通りは夕飯の買い出しをする人たちで少し賑わい始めていた。魚屋では鉢巻をした店主がサンマを販売用にさばいていた。焼鳥屋の前では煙が立ち込め、常連客の老人たちが店頭で酒盛りをしていた。

 この商店街のありふれた風景だった。私はこの街にやってきて以来、何度もこのような風景を見ていた。この日も特段変わったことはなかった。

私はいつもの風景を横目に、商店街の端にあるスーパーに向かって歩いていた。商店街の通りは、いくつかの裏路地が交差していた。

私がそのうちの一本の裏路地にさしかかったときだった。突然、何かが私の意識に引っかかった。

 私はその場に立ち止って奥の目を向けた。この場所にずいぶん長く暮らしていたが、こうして関心をもって見るのは初めてだった。

 裏路地は半分朽ち果てたような建物に両側に分けるように通っていた。道幅が3メートル程度はあるのだが、実際には、けばけばしい色の看板や古いエアコンの室外機、それに路上駐車のバイクのせいでかなり狭くなっていた。そのような狭い場所にうらびれたスナックや雀荘などが窮屈そうに軒を並べていた。私にはこの猥雑な横丁が、この「世界」の最奥部のように思えた。これ以上の混沌は探すのが難しそうだった。

 私はその裏路地のさらに奥の方に目をやった。すると青く葉が茂ったところがあるのに気づいた。街の中に林があるように見えたが、それは違っていた。それは建物だった。植物の茂みに囲まれた建物だった。私は店頭に置かれた小さな看板に目を凝らした。「アンティーク」という文字が見えた。

そのとき、どこからか風が吹いた。

「私はここよ。早く来て」

誰かの声がしたような気がした。そして、その声は茂みの中のアンティークショップに私を誘っているように思えた。

 その声に抵抗する理由はなかった。私は裏路地の方へ足を向け、奥の方へ進んだ。そして、その店の前に立った。

 店の入口は遠目で見た通り緑に覆われていた。実際には壁面を蔦が這うように覆い、店頭で生い茂った鉢植えが蔦と一体化したように見えていた。古ぼけた店頭看板には赤字に白文字で「アンティーク・骨董 かんだ」と銘打ってあった。ショーウインドウらしきものも見えるが、茂みに覆われて商品がよく見えなくなっていた。入るのに少し勇気がいったが、私は意を決して店に入ってみることにした。

「ごめんください」と私はがたついた扉を押し空けながら言った。

 店の棚には、陶器や置物などが所狭しと並んでいた。また、古いランプが数多く置かれ、薄暗い店内をほの明るく照らしていた。壁には年代ものの時計がいくつも置かれ、それぞれ違う時刻を指し、またそれぞれが別個に歯車のかみ合う音を鳴らしていた。ここに長くいたら時間の感覚が狂ってしまいそうだった。

 店の中央にはカウンターが置かれ、その奥でニットキャップを被った小柄な店主が、メガネを鼻にかけて、時計の音を気にもとめずに本を読んでいた。

「いらっしゃい」と店主は本を脇に置き、柔和な声で客を出迎えた。

 私は七福神の布袋様のような店主の顔に見覚えがあった。この前のガールフレンドとのデートの帰りに乗った、不思議なタクシーの運転手だった。

「この前のタクシーの運転手さんですよね?」と私は彼に尋ねた。

「ああ、この前の夜のお客さんでしたか。ずいぶんお疲れのようでしたので、私も覚えております」と店主は答えた。「ここは、元々、私の飲み仲間がやってた店なんですけどね、そいつが体を壊したので店を辞めるって言いだしたので、私が店を引き継ぐことにしたんですよ。つい一ヶ月前のことです。いつかはこんな店をやりたいってのが私の夢だったんですよ。タクシーはまだ乗ってますが、今は、まあ、趣味程度ですよ」

「私はこの辺に住んでいるのですが、今日、通りがかりになんとなく気になって。少し品物を見させてもらってよろしいでしょうか?」と私は店主に言った。

「ええ、どうぞごゆっくり。私の仲間ながら、なかなかいいものを揃えていると思いますよ」と店主は言った。

 私は狭い店内の品物をつぶさに見た。店の品揃えは洋風のものが多く、華麗な草花の文様が入った陶器や微細な装飾加工が施された銀の食器、彫刻のような飾りのある家具などが置かれていた。私はその品揃えの豊富さに感心しながら棚の上に目を泳がせた。きっと、このコレクションを構築するために、前の店主は自らの人生の大半を費やしたのだろうと思った。

また、隣の棚には、大きな目をした数多くの女の子の人形たちが自らの衣装を自慢するように行儀よく座っていた。人形たちはあらゆる色彩で自らの存在を訴求しているかのようだった。ある者の目は青く、ある者の目は緑だった。また、ある者の服は華やかな春の植物をあしらったものであり、ある者の服は赤紫のベルベットであった。

さらに奥の方では、ぬいぐるみたちもその身を佇ませていた。猫や兎のぬいぐるみも置かれていたが、前の店主の好みなのか、彼らのほとんどは犬であった。彼らのひたむきな瞳を見ながら、私は彼らのかつての持ち主のことに思いを巡らせた。それは育ちのよい少女であったかもしれなかった。彼女たちはベッドの中で彼たちとともに、寝物語や子守歌を聴きながら毎夜夢の世界に旅立っていたのだろうと思った。

 そして、私の視線は一体の熊のぬいぐるみの前で止まった。熊のぬいぐるみはこの店内ではこの一体だけだった。それは古びたテディーベアだった。人の赤ん坊ほど大きさで、手足がずんぐりと大きかった。その小さくつぶらな瞳は、自らの存在を見る者に訴えかけるように輝いて見えた。

 私は、このぬいぐるみを見たことがあるような気がした。それに偶然似ているものを見ているということではなかった。どういう経緯でここにたどり着いたのかは分らないが、とにかく、このぬいぐるみは以前どこか別の馴染のある場所にあったもののように思えた。

 私は心の中に引っかかるものを感じた。

 私がこれを見たのはどこだったのだろうか?―私はこの疑問を無視してはならないと思った。私の意識は純粋な視点のみの存在となり、私の記憶の河を遡っていった。

そして、すぐにある記憶にたどり着いた。

 

そこには私の妹がいた。私が到達したのは昨晩の夢の始まりのところだった。

部屋に美しい妹が入ってきた。彼女は大きな熊のぬいぐるみを抱えていた。それは全体の大きさと手足の感じから、この店のテディ―ベアであるように思えた。

しかし、これが彼女のものだとしても彼女自身は私の心の中の存在でしかなく、現実に存在するこのテディ―ベアと繋がるはずはない。

そのとき、私の記憶が私自身に訴えかけてきた。私は他の場面でもこれを見たことがあるはずだ、と。

私の意識はさらに別の記憶へと向かった。

次にたどり着いたのは、私と麻里子が出会った部屋であった。

そこにはお互いを愛おしく見つめる私と麻里子がいた。麻里子は自らのネックレスを外し、女性化した私の首につけようとしていた。そして、室内のチェストの上に一体のぬいぐるみが置かれていた。

私の意識の焦点はそれを見逃さなかった。

このぬいぐるみはさきほどの少女のものと同じであり、また、現にこのアンティークショップにあるテディ―ベアそのものに違いなかった。

しかし、私の心の中の存在でしかなかないのは、彼女についても同じである。やはり、現実に存在するこのぬいぐるみとどうしても繋がらない。

私の意識がその場に立ち止まるように考えていると、私の記憶は更に大きな声で私に叫んだ。そこで立ち止まるな、私の深淵を探れ、と。今しがた感じた例えようのない懐かしさと温もりから何かを思い出すのだ、と。

その声に従うように、私の意識は記憶のもっと深い領域へと潜り込んだ。

そして、漆黒の闇の中にあるいわば、記憶の地底にたどり着くと同時に、私はついに思い出した。麻里子のぬいぐるみ、すなわち少女が手にしていたそれは決して私の意識が作り出した虚構などではなかった。ぬいぐるみは現実にかつて私が手にしたことがあるものであり、私と麻里子が過ごしたあの部屋は実際に私が居たことのある場所であった。

だとすると、なぜ、私の内なる存在の彼女らがそこに?

そのとき、そこから地上に向けて一筋の閃光が走った。閃光はみるみる間に太く強くなり、やがて、私の心の天地をあまねく照らした。

 溢れんばかりの輝き。私の中ですべてが繋がった。

そうだ。存在しないはずの私の妹は麻里子だったのだ。そして、麻里子は幼い日に失った私自身だったのだ!

それは、私にとって当然の事実だった。むしろ、当然すぎる事実だった。なぜ、もっと早く気付かなかったのだろうか?

そんなことも分らずに、私はあの場所で再び麻里子を失ってしまったのだった。そして、麻里子を自らの意思で取り戻すことを放棄しようとしているのだった。でも、それは間違っている。絶対に間違っている。彼女は失われてはならないのだ。我々は離れていてはならないのだ。

 ここで、私の意思は固まった。必ず麻里子のもとに戻らなければならない。どんな犠牲を払ってでもそれは遂行されなければならない。老人の言うように「世界」が消滅することになってもそれは致し方ない。私にとって麻里子と共にあることだけが真実なのだ。

 私は興奮で大きな声を挙げたい気持ちになった。

 私は、棚から麻里子のテディ―ベアをつかみ取り、店主の前で叩き付けるように代金を差し出した。「これを下さい!」

「はい…。ありがとうございます」と店主は驚きでその場に静止して、きょとんと目を見開きながら代金を受け取った。

 私は店を出ると衝動に駆られたように走り出した。

 私は行かなければならなかった。そして、私の犯した間違いを正さなければならなかった。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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