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ひまわりクリニックから帰った後、ビールを飲みながら夕飯のパスタを茹でていた。缶詰のミートソースを乗せたパスタとサラダで簡単に済ませるつもりであった。夏の暑さで食が細くなった私にはこの程度の食事がちょうどよかった。
鍋のお湯の中で泳ぐ麺を眺めながら、夏木医師が言っていた「冒険の旅」について考えた。私はこれまで冒険と呼べることは自ら望んでしたことはなかった。時折仕事上の厄介ごとに悩まされたが、それは自ら望んでリスクを背負っていない以上、冒険とは異なるものだった。私にとって冒険とはどこか遠いところの事象のように思われた。そのような冒険などドラクエの勇者に任せておけばよかった。私が望むことはもう一度麻里子に会うこと。ただ、それだけだった。
そして、私が「決定的に変わる」とはどうゆうことだろう、と考えた。私は自らの変化など望んではいなかった。何もかも捨てて一人で生きたいと思うことはあったが、どんな境遇にあったとしても私は私に違いなかった。私の心の世界は何ら変わらない。私はただ静かに生きたい。この世界の片隅で、過ぎゆく月日を惜しみながらひっそりと余生を過ごしていたい。私はそのように思っていた。
私は旅には出たくなかったし、何にも変わりたくはなかった。しかし、予言が正しければ、という前提付きだが、私の望みとは無関係に冒険の旅と私自身の変化が近づきつつあるのだった。
そのとき、私のスマートフォンが鳴った。相手の番号は非通知だ。どうやら、私の知らない誰かが私と話をしたいらしかった。私は嫌な予感がした。本当は電話に出たくないが、仕事上のトラブルの可能性もあった。出ないわけにはいかない。私は電話に出ることにした。
「もしもし」
「あんた、桐野さんかい?」と電話の声の主は言った。声は威圧感に満ちた中年の男のものだった。私の経験上、少々面倒な人種らしいことは想像に難くなかった。
「そうだが」と私は手短に答えた。
「回りくどい話は抜きだ。あんたに少し聞きたいことがあるんだが」と男は言った。
「聞きたいことって?」と私は敢えて男に尋ねた。大方察しは付いてはいたが。
「あんた、夏木って女の医者を知っているよな。ちょっとその医者から受けている治療のことで、あんたにいろいろと聞いておきたいことがあるんだ」と男は言った。「勘違いするなよ。俺はあんたのために言っているんだからな。この意味はわかるだろうな。できれは、我々も荒事は避けたい」
「その医者のことはよく知らない」と私は答えた。彼女との関係は敢えて言わないほうが得策だと思ったからだ。
「調べは付いている。あんた、夏木がやっている病院の常連なんだろ?あんたの通院回数ははっきり言って異常だ」
「調子が悪いからそこに毎日のように通っていたことは確かだが、それが何かおかしいか?」
「いいや、おかしくはないさ、普通の病院ならな。しかし、あんたが通っていたところがやっていることは少々特殊だよな?」
「あんたに話す義務はある?」
私の質問の後、しばらく双方とも沈黙した。
「義務はないよ。しかし、いずれあんたは我々に話したくなるさ。何もかもな。まあいい、また連絡するよ。ちなみに言っとくが、我々から逃げるなんてことは考えんほうがいい。我々は必ずあんたの居場所を突き止める。たとえ、そこがたとえ地の果てであってもな」と男は言うとすぐさま電話を切った。
夏木医師は相当厄介な筋に狙われているらしい。そう言えば、昔、大富豪が設立した怪しげな研究機関に勤めていると言っていたが、一体どういう組織なのだろうか、と思った。そこはひどく秘密主義的なところかもしれなかった。とすれば、組織を出て活動すること自体危険が伴うことは想像に難くなかった。目障りだと思われれば抹殺されることも十分考えられた。もしかすると、あの『夢見の技術』はその組織のトップシークレットであり、公然とクリニックを開いて施術していたことが組織にとって極めて不都合だったのかもしれない。もしそうであれば、電話の男のような連中が出てくることについて説明が付いた。どうやら、私は面倒なことに関わってしまったらしかった。
電話の男の望みどおりに治療の全容を話して、彼女のことを捨て置けば何事もなく過ごせるかというと、そういうことではないだろう、そんな予感がした。私はきっと彼女のもとへ行かざるを得なくなるだろうと思った。言い換えれば、すでにトラブルの渦中に放り投げられていたとも言えた。
もう食事のことはどうでもよくなっていた。私はこれまでのことを振り返った。タクシーでもらった名刺をもとにひまわりクリニックに通い出したこと、夏木医師やその娘と出会ったこと、夢の世界で彼女そっくりの姿になって麻里子と何度も関係を持ったこと、そして、彼女と突然に別れてしまったこと。このところあまりにも奇妙なことが多すぎる。私はきっと知らない間に踏み入れてはならない領域に足を踏み入れてしまったのだ、と思った。
私が考えを巡らせていると、また、スマートフォンの着信音が鳴った。今度の電話の主は、クリニックの受付の女の子だった。事の早すぎる展開を考えると、特に驚くべきことはなかった。
「もしもし。どうしたの?」と私は彼女に尋ねた。
「突然の電話でごめんなさい。桐野さんしか相談できる方がいなくて。母が大変なんです。私が買い物に行っている間に、誰かに連れ去られたみたい」
「どこか散歩にでも行っているとかじゃないの?」
「違うんです。さっきから電話も通じないし、診察室もめちゃくちゃよ。整理整頓が苦手といっても、ここまで散らかす人じゃないわ。きっと誰かともみ合いになったんだわ。怖い。すぐに来て」
「わかった。すぐに行くから。待ってて」
私はそういうと電話を切り、日曜日の夜の、一週間のうちで最も暗くなった通りに駈け出した。Tシャツに七分丈のパンツにキャンバスシューズという着の身着のままの恰好だったが、それでも構わないと思った。着替える暇もないような差し迫った事態のように思えたからだった。
しかし、なぜ私が彼女らを助けに向かっているのか自分でもわからなかった。一つ確かなことは、私がもはや後戻りがきかない場所にいるということだった。とにかく、今は投げ出された状況の中を泳ぐしかなさそうだと思った。