9. 「地の底より現れし者たち」 小説『レイト・サマー』第4章(後編)-あるオートガイネフィリアの物語-

「こっちよ。早く」

 私がクリニックに着くや否や、娘はエントランスから顔を覗かせながら手招きして私を呼んだ。

 私は待合室の奥の診察室へ案内された。

 診察室の中は、雑然としていた。娘が言うとおり、めちゃくちゃだった。机やキャビネットの引き出しという引き出しは荒らされ、文献資料や研究データが書かれた紙が散乱していた。窓のカーテンは引き裂かれ、うなだれるように裂けたその体を晒していた。また、診療用の機材類も投げ出され、無残に破壊されていた。まるで魔物が暴れまわった後のようだった。おそらく屈強な男の数人がかりの仕業だろう。

「ひどいな。これは」と私は思わずつぶやいた。そして、彼女に問いかけた。「近頃、変わった様子はなかった?変な連中に見張られていたとか」

「見張られていたのは、しょっちゅうよ。だって母は研究所にとっては裏切り者だから。ただ、これまで手を出されたことはなかったわ」と彼女は答えた。

「それはなぜ?」と私は再び問いかけた。

「母は、研究所の内情をかなり詳しく知っていたからだと思う。彼らにとって、公にされると困ることも多いんじゃない?」

「例えば、非人道的な実験をしていたとか?」

「あり得るわ。あそこでは、そういうことも公然とやられていたみたい」

 常に監視されていながらも、これまで無事に過ごせたのは、簡単に言えば、彼女が組織の秘密という弱みを握っていたからということのようだった。しかし、なぜ、彼らは今回拉致という実力行使に出たのか分らなかった。しかし、陰の部分が明るみになるリスクを冒してまで敢えて実行したということは、それなりの理由があったに違いなかった。それは、決して彼らが容認できない一線を彼女が越えてしまったということを意味していたのかもしれなかった。

「警察に相談したほうがいいんじゃないか?」と私は言った。

「あの人たちに相談しても仕方がないわ。あの人たちは型どおりの捜査をやって、事を面倒にするだけよ」と女の子は答えた。彼女は思った以上に冷静だった。私は前言を撤回したい気持ちになった。

「とにかく、一旦ここを出よう。そして、これからどうするか考えよう」と私は彼女に言った。荒らされた状況から察して、ここはもはや安全ではないことが明らかだったからだ。この場は彼女の身の安全を考えることが先決だった。

「そうね」と彼女は私の提案を受け入れた。

「今夜は僕の部屋に泊まりなよ。狭いけど、ここよりは安全だ。僕は近場のビジネスホテルで寝るとするよ」と私は言った。私は一応未婚の女性への振る舞いは心得ているつもりだった。

「えっ、そんなことしてもらったら悪いわ」

「今は他に行くところはないんだろ?」

 彼女は黙ってうなずいた。

「事が決まれば善は急げだ。さあ行こう」

 私たちが診察室を後にしてクリニックを出ようとしたそのときだった。不意に人の気配を感じた。

「いやっ」

 驚きの声とともに、女の子が不意に私に抱き着いた。そして私の腕の中で体を小刻みに震わせていた。

「どうやら俺と話がしたくなったようだな。それにしても、あんた、気が変わるのが早すぎないか?節操がなさすぎるぜ」

 そう言って、クリニックの入り口からやや小柄なサングラスをかけた顎髭の男が現れた。体格のわりに厚い胸板がスーツ越しにもそれがわかった。また、はげ上がった額には、深いしわが刻まれていた。見るからに裏稼業の人間だった。それは小学生でも分かるくらいだった。そして、その男に続いて、黒装束の男が三人入ってきた。彼らはおそらく顎髭の男の手下であった。私は無意識的に彼らにあだ名を付けた。デブ、モヒカン、それにフランケン。まるで漫画のようだった。

「おい、俺が言ったとおりだろう?こいつはすぐに現れるって。単純な奴だ。仲間が連れ去られたって聞くとすぐに出張ってきやがる」と顎髭が手下に言って自らの勘の確かさを自慢した。

「先生をどこに連れ去った?」と私は彼に問いただした。

「まあ、あせるな。いずれ会わせてやる。それにしても会いたかったよ、あんたに」と彼は言うとジャケットの胸ポケットに手をいれ、煙草を取り出した。

「一服どうだい?」

「そんなものはいらない」と私は彼の勧めを拒絶した。

「まあ、そう言うと思ったよ」と彼は言うと、私が吸う予定だった一本にライターで火をつけ、そのまま一服し始めた。彼の吐く煙が私にまとわりつくように立ち込めた。

「私に一体何を聞きたいんだ?」と私は彼に問いかけた。

「あんたのことについて聞きたいだけだ。あんたがなぜ、夏木の手品を受けて平気な顔をしてられるかってことについてな。ふつうはあんたみたいに何回もあれを受けているとみんな気がおかしくなる。しかし、なぜかあんただけは平気だ。」と彼は空中に立ち上る煙草の煙を見ながら言った。

「気がおかしくなる?あれはただの催眠療法だ。特に害はないはずだが」

「そいつは違うな。あんたは分っちゃいねえが、あれは一種の劇薬だ。俺はそっちのほうには詳しくないが、感覚的にそれはわかるね。それに、夏木のせいでおかしくなった奴を何人か見たが、まあ、普通じゃないないな。人間、ああなったら終わりだな」

「おかしくなるのはたまたまだろう?薬の効き方にも個人差がある」

 そう答えた一方で、私の心の中のざわめきがさざ波のように起きているのを感じていた。夏木医師は夢見の施術で何をしようとしていたのか?また、その施術を受けてなぜ私だけが無事でいられるのか?

「夏木の施術は随分と人を選ぶが、あんたの耐性は、特異中の特異ってわけさ。ところで、あんたが平気で居られる理由について、うちの上のほうも随分気になってるみたいでね。それでな、上のほうからきつく言われてるんだよ、あんたも絶対に連れてこいって」と男は顔を私に近づけ、見開いた目で私を見つめながらそう囁いた。

「私をどうしようというんだ?」と言いながら私は男を睨み返した。

「察しがついてるだろうが、夏木がやってたことは、組織の最重要研究だ。それに、あんたはその唯一の成功事例だ。組織が見逃すわけはない」

「最重要研究だか何だか知らんが、あんたらに根掘り葉掘り聞かれる筋合いはない」

「あんたは選ばれたんだよ」

「選ばれた?」

「もっと素直に喜べよ。まあ、確率から言って、宝くじに当たったようなもんだ」

「馬鹿馬鹿しい。あんたらには付き合ってられない。帰る!」

 私は、男にそっぽを向き、女の子の手をとって彼らに背を向けようとした。そのとき、何者かが私の前の立ち塞がった。

「てめえ、調子こいてんじゃねえぞ」とその誰かが言った。

 この野獣の唸りような声の主は顎鬚ではなかった。どうやら、巨漢のフランケンが私に苛ついているようだった。彼はいきなりその巨大な手で私の喉輪を掴んで、ゆうゆうと私を持ちあげた。私は、喉元の苦しさとともに、10cmぐらい宙に浮いた感じがした。

「馬鹿野郎!殺すんじゃねえ!生け捕りだ」と顎鬚は怒鳴ってこの大男を制止した。さっきとは一変した凄みのある声だった。

 彼は私を放り出すように喉から手を離した。私はその場でうずくまり、激しく咳き込んだ。

 私が息を整えていると、顎鬚の合図とともに、突然、別の手下のモヒカンが後ろから女の子の口を手で塞ぎ、ナイフを顔に近づけた。彼女の目は驚きと恐怖で震えていた。

「なあ、ちょっと俺たちとドライブにでも行かないか?何ならそこの彼女と一緒でもいいぜ」と顎鬚は私に言った。

「その子には手を出すな」と私は顎鬚の顔を睨みながら言った。

「そいつはあんたの心がけ次第だ」と顎鬚はあざ笑うようにそう言った。

 どうやら、この状況では彼らに従ったほうが得策のようだった。

「わかったよ」と私は彼に言った。

「そうこなくっちゃ。俺たちも何も好き好んでこんなことをやってるわけじゃないからな。まあ、仲良くやろうや」と彼は言うと煙草を絨毯の上に落とし、靴で踏みしだいた。絨毯に黒い染みが広がった。

「それじゃ、あれに乗ってもらおうか?」

 顎鬚が指さした先には、一台の古びれた白いバンが止まっていた。

「悪いがあんたは後ろの荷台だ。あいにく、俺たちとその娘で席がいっぱいだからな。それと、俺たちの後ろで変な気を起こされては困るから、少し細工させてもらうぜ」

 顎鬚がそう言うと、背後にいたモヒカンとデブが、いきなり毛布を私の体に巻き付けてきた。そして、その上から黄と黒のトラロープでしっかりと結びあげた。いわゆる「簀巻き」であった。顔は外に出ているものの、身動きが全く取れなかった。

「おめえら、そいつを後ろに放り込んでおけ」と顎鬚が命令すると、手下の二人が私を持ちあげて、バンの後部ドアから車内に私を放り入れた。手が出せないので受け身を取ることもできず、私の腰の辺りに強い衝撃をもろに受けた。その後、二人は女の子を両脇で抑えるようにして後部座席に腰かけた。続いて、顎髭が助手席、モヒカンが運転席に乗り込んだ。

「長居は無用だ。戻るぞ」と顎鬚が言うと、白いバンはまるで夜陰に紛れるかのように静かに発進した。

 過ぎゆく道の街燈が車内を微かに照らしていた。そして、車窓から夜の風景が微かに見えた。そこから類推すると、どうやら車は西へ向かっているようだった。私はこの車の行く先を推測してみたが全く見当がつかなかった。私はただ、にわかに動き始めた運命に従うしかなかった。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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