ひまわりクリニックは、神楽坂の石畳の坂道の途中にある、古い佇まいの2階建ての洋館だった。建物の壁面には瀟洒な窓を避けるように涼しげに蔦が生い茂っていた。入口は緑の外構えからローズアーチにより玄関に導かれていた。まるで、英国人の富豪宅だ。ドアの小さな表札により、そこがクリニックであることが伺い知れた。
「こんにちは」と私はドアを開いて尋ねた。中には誰も見当たらない。窓から差し込む夏の日差しと静寂が部屋にあふれていた。
受付はアンティーク調のカウンターが備え付けられ、パソコンとレジと使い古された電話機が置かれていた。奥のチェストには、書類が所狭しと配列されていた。
受付の奥は待合室のようだった。意外と広い。その奥はオープンガーデンとなっているようだった。その広間の大きなソファーとテーブルが降り注ぐ光を受けて白く輝いていた。
オープンガーデンは、このクリニックにふさわしく、小振りなひまわりの花で花畑のようになっていた。その脇をダリアやベコニアなどの夏の花がかためていた。
「あら、申し訳ありません。桐野様ですね」
庭にいたショートヘアの女の子が私に気付いて振り向いた。大きな眼鏡をした幼顔の彼女は、水差しを持ったまま私に微笑みかけていた。おそらく水やりの途中だったのだろう。彼女は白いブラウスの襟を立て、鮮やかな柄の入ったロングスカートに白いスニーカーを履いていた。医療施設にしては随分カジュアルな恰好であると言ってよかった。
「突然お伺いしてすみません」
「どうぞそちらにお掛けになってお待ちください。」と彼女は窓際の白く長いソファーをすすめた。
「もうすぐ診察できるかと思うのですが、うちの先生、何かに熱中すると患者さんそっちのけになるんです。今は自分の研究で忙しくて…」
「お構いなく。きょうはもう暇だから」
「申し訳ありません」
私は気長に待つことにした。待っている間、女の子は奥の間と待合室を幾度となく往復していた。私はその様子をぼんやりと眺めていた。もともと、私は待つことをそれ程苦にしない質であった。それに、ここにいると実に気分が落ち着いた。まるで、何十年もここに住んでいたかのようだった。
しばらくして、受付の女の子が飲み物と洋菓子を差し出してきた。洋菓子はレモネードとチョコレートケーキだった。レモネードはそれほど冷えていなかった。それは瓶に入れて高原の小川にしばらく漬けていたかのような冷え具合だった。昔は凍る寸前のような冷たいコーラを鯨のようにガブ飲みしたものだったが、今となっては、むしろこれぐらいの冷たさのものを少しずつ口にするほうが、より甘味が感じられて好きだった。チョコレートケーキも悪くなかった。私はくどいような甘さには子供の頃から目が無かった。この手の甘いものを一度食べだすと止められない。私はいい年をした甘党なのだ。
「飲み物とお菓子はうちで作ったものでしたけど、お口に合いましたでしょうか?」と彼女は私の反応が気になるようだった。
「いやぁ、おいしいですね。これならいくらでもいけますよ」と私はそう答えた。実際に、なかなか満足していた。
「まぁ、よかった。気に行っていただけて」
女の子は安心したかのようにほほ笑んだ。
「あら、もうこんな時間。もうそろそろ大丈夫かと思いますので、少々お待ちください」と眼鏡の女の子は言った。そして、奥の間に消えた。おそらくそこが診察室なのだろう。
「桐野さん、どうぞ」とすぐさま別の女性の声が聞こえた。
「はい」と私は呼ばれるままに答えて、奥の診察室へと入って行った。
洋館の主の書斎を思わせる診察室は、ほのかな陰翳に包まれていた。とはいえ、程よく採光されており、診察には問題なさそうだった。むしろ、これぐらいの明るさのほうが心が落ち着く。心療クリニックの診察室としてはこの程度の明るさがむしろ相応しいのかもしれなかった。
奥には重厚な執務用の机と椅子があり、一人の女が私を背にして座りながら、眼鏡の女の子と簡単な事務連絡をしていた。彼女が用件を終え部屋を退出すると、話の相手はゆっくりと椅子を回して私の方を向いた。
「どうぞ、こちらにお掛けください」と椅子に座る女が診察用の椅子に座るよう私に勧めた。どうやら、この女がここの先生らしかった。彼女は黒のブラウスとタイトスカートに緑のカーディガンを羽織り、肩まで伸びた髪がきれいにカールしていた。若干年配ではあったが、かなりの美人といってよかった。白衣は着ていない。それがここのクリニックの流儀らしかった。
「どうも」と私は手短に答え、勧められるまま簡素な診察用の椅子に腰かけた。
「初めまして、当院の院長の夏木です。驚いたんじゃない?病院らしくなくて」と彼女はそう言ってほほ笑んだ。
「ええ、まあ」と私は中途半端にそう答えた。先生が女であることも含めて、驚かなかったというと嘘にはなるが。
「開業するときに、病院らしくないところ、って不動産屋さんにお願いしたら、ここを紹介されたの。最初は、もうじき倒壊するんじゃないかって思うぐらいオンボロで、リフォームが相当大変だったわよ。でも、すごく今は気に入ってるの。立地もすごくいいでしょ?緑が多くて。あら、やだ、むだ話ばかりして。それじゃ、早速診察に入りましょう。今日はどうされました?」
「最近、よく眠れないんです」
無論、実際にはそんなことはなかった。これは口から出まかせだった。不眠症の男が甘いものをがっつくのは、いかにも不自然だった。
「症状はそれだけ?」
「それと…」私はそう答えて言葉に詰まった。先週、タクシーの運転手に聞いた、「心の底から願っていることが叶った」という言葉が頭をよぎった。そう、私の願いは妄想を一掃することだった。しかし、どうやって自然にそれを伝えるか?迂闊にもノープランだった。
しばらく悩んだ後、私は続けた。
「その…、なんというか、嫌な考えがいつも浮かんで苦しいんです」
「嫌な考え?ふぅん。そうなのね…。わかりました。大丈夫よ、それ以上言わなくても」
「えっ」
「あなたみたいな人はときどきやってくるから、言わなくてもどんなことをしてほしいかは勘で大体わかるの。安心して。怖いことは何もないから」と夏木医師はそう言った。
「言わなくてもわかるって?」と言いながら、私は少し当惑した。私の本当の願望は口の出すことが憚られる種類のものだったからだ。
「もちろん、あなたの心の中はわからないわ。でも心の葛藤で押しつぶされそうなのはよくわかる。いい治療法があるわ。試してみる?うちは特殊なところなの。あなたみたいな人のために特別メニューを用意しているわ」
「特別メニュー?」
「そう。特別メニュー。催眠療法の一種になるかしら」そして、彼女は続けた。「あなた、明晰夢って知ってる?」
「夢をみているときに、自分は夢をみているんだ、って自覚しているやつ?」
「そう、それ。脳波にはいろいろあるんだけど、通常、夢を見ているときは8ヘルツから14ヘルツのアルファ波が支配的だって言われているけど、明晰夢を見ているときは25ヘルツから40ヘルツのガンマ波が見られるの。ちなみに、瞑想中のチベットの修行僧の脳波はガンマ波が優勢であることも知られているわ。それとね、ここが大事なところなんだけど、脳波は音声などを聞かせることによって外部から誘導可能だわ。すなわち、明晰夢が見れる状態は意図的に作れるってことね」
「明晰夢って言っても、ただの夢でしょ?これは夢だって自覚したとしても。目が覚めるとすぐ忘れてしまうような」
「普通はね」と彼女は含みのある笑顔を見せた。
「普通って?」と私は思わずそう答えた。
「さっきから言ってるでしょ?うちは特別なところって。あなたがこれから見るのは夢なんて生易しいものじゃない。言ってみれば、もう一つの現実よ」彼女は続けた。「夢と現実なんて本質的には違いはないの。人は現実の圧倒的にリアリティーのあるものを現実と決めつけて、それ以外の方を夢として区別しているに過ぎないのよ」
「現実と区別できない夢なんて意図的に見ることなんてできるんですか?」
「もっとも、普通に脳波誘導をしただけでは、そんなレベルには到底到達できないわ。私ね、そういうの専門なの。睡眠中の人の脳の発火現象をテーマに博士論文を書いたことがあるわ。それに開業する前は、ある大富豪一族が出資する研究機関にいたの。表向きは医学による社会貢献を謳っているけども、実際は相当怪しげな研究をやっているところだったけどね。でも、そこでは、かなりの額のお給料を貰いながら随分好きに研究させてもらったわ。そこで自由自在に脳内に仮想現実を作り出す研究をしていたの」
彼女は相当優秀な人であるらしかった。しかし、その研究領域はひどく胡散臭いものに思えた。ごく控えめに言っても、あまり深く関わらないほうが得策であるような気がした。その一方で、彼女の話にもう少しだけ付き合っていたい気もした。
少し迷ったが、私は質問を続けることにした。怖いもの見たさの感情が勝ったのだ。私は、このときほど自らが物好きであることを自覚したことはない。心の奥から沸き起こる好奇心を抑えることができなかった。
「脳内に仮想現実を作り出すって、具体的にはどうやるんですか?」と私は率直に聞いてみた。
「現実レベルの夢を見るには脳波の周波数と強度、脳内のドーパミンの最適条件、五感からの情報の完全シャットアウト、それに、これはノウハウだからあんまり詳しくは言えないんだけど、ある種のサブリミナル信号の組み合わせが必要なことを突き止めたわ。特許が取れるんじゃないかって思うぐらいの大発見よ」と彼女は、誇らしげに私の質問に答えた。私は、経験上、科学者とはこのような反応をするものだろうということは理解していた。いわば、一種の自己顕示欲の発露だった。
「私は素人なのでよくわかりませんが、随分素晴らしい技術をお持ちのようですね」と私は話の成り行きで彼女を褒めた。しかし、実際には彼女の理屈は全く理解しかねていた。
「それにね」と上機嫌になった彼女は言った。「その技術を応用して結構いたずらもしたわね」
「いたずら?」
「そう、被験者に嘘の記憶を刷り込んだりして。ある特殊な操作をしてあげれば人の記憶を作り出すことなんて簡単よ。現実そっくりな夢を断片的に何度も見させるの。例えば、猫を飼ったことのない人の夢の中に彼が愛猫と過ごしたという偽の記憶を刷り込むとかね。夢を見てしばらく経てば、潜在意識では嘘と現実の区別なんてできないから、嘘はやがて真になる」
「えっ」と私は思わず声を出した。私は彼女の発言に半ば驚きながら、この女は正気なのか、と思った。
「それで、被験者はその後どうなるんですか」
「気の毒だけど、そのままよ。もとに戻す技術は今のところないの。でも、思うのよ。特にたちの悪い記憶を植え付けているわけではないから、そんなに心配することないかなって」
「そのままって…」
「安心して。今はそんなことやっていないから。まあ、こんなことばっかりやってたから、前の職場に居づらくなってしまったけどね。一応、これでも反省しているのよ」
この女はやはり少し狂っている、と私は思った。とんだ災難に出会ってしまった。私は一刻も早く帰りたくなった。きっと来る場所を間違えてしまったのだ。
「すみません、せっかくですが、その治療法を試すのはまたの機会にします。今日はなんだかそういう気分じゃなんで」と私は言った。
この場は早々に退散することに越したことはなった。もはや長居は無用だった。私はおもむろに立ち上がり、踵を返そうとした。
「あらあら、もうとっくに治療は始まっているのよ」と彼女は診察室を後にしようとする私に向けてそう言った。
「はい?おっしゃっている意味がよくわかりませんが」と私は彼女に答えた。
「つまり、引き返そうとしても、もう遅いっていいたいのよ」
「遅い?」
そう言った瞬間、急にめまいがした。そして、まともに立っていられなくなった。私は、無意識的にすぐ傍の診察用のベッドにへたり込んでしまった。恐怖感とともに、体のコントロールが急速に失われていくのが自分でも分った。
「あなたが疑り深い人だって、ここに来たときの様子から何となく分ったわ。だって、こんな風変りなクリニックのやることなんて簡単には信じないぞ、って顔に書いてあるみたいだったもの。でも、あなたみたいな人こそ、私の治療を受けてもらう必要があるの。実は、さっきお出しした飲み物とお菓子に眠り薬を混ぜておいたの。大型動物でも倒れこんでしまうような分量で。少し強引だけど悪く思わないでね。これもあなたのためだから」
私は何か言ってやりたかったが、口からは言葉にならない声が力なく漏れるだけだった。
「あなたはこれから深い眠りに落ちるの。でも眠るのは最初のうちだけ。そのあとは超覚醒よ。夢の世界で」
そういうと、女医は私にゴム製の黒い全頭マスクとヘッドホンをかぶせてきた。私は外界からの光と音とは無縁となった。
遠のく意識を集中しようとしたが、無駄であった。私は、ただ暗闇の中で、体の自由とともに自我が失われてゆくのを感じることしかできなかった。漆黒の宇宙のような闇の中でただ聞こえるのは、無機質な音のうねりだけだった。
やがて、抵抗しようとする気も失せてきた。すると不思議な感覚が体を支配していることに気付いた。耳にしている大音声はただの機械音であったが、意外にも心地よかった。まるで体の芯を愛撫されているかのようだった。
「さあ、行くのよ。あなたが本当に望む世界へ…もう扉は開かれている」と彼女はそう言った。いや、そうではなかった。実際には、大音量が流れるヘッドホンをしていたので彼女の声が聞こえるはずはなく、そう言われた気がしただけだった。
しだいに意識が朦朧となり、大きな音とともに黒い空が落ちてくる感じがした。もはや、どちらが上でどちらが下かわからなかった。自分と外界との境界が曖昧になり、周囲の空気が重くなりねっとりとまとわりつくような感覚がした。また、ベッドが液状化し、温かな粘膜にようになったようだった。私は、流動化した生暖かい世界に絡めとられながら深いところへと沈んでいった。まるで底なし沼に堕ちてゆくように。これから、世界の根源に潜りこむ、そんな気がした。また、そこに落ちてゆくとともに体が時を遡っていくようだった。若いころ、少年時代、幼児期…。そして、私の体はさらに小さくなっていった。さらに小さく、さらに小さく…。
気が付けば、耳に鼓動が聞こえた、これはきっと母の心臓の音だった。すると、ここは子宮の中だろうか?
私は予感した。ここで私自身の組成が変わるのだと。清らかで美しいものに変わるのだと。
そして、原始の海で生をうけるそのときを静かに待つのだと。
気持ちいい。とても気持ちいい。私はこれから生まれ変わるのだ。きっと、生まれ変わるのだ。
生まれ変わる…。生まれ変わる……。
やがて、私は強い光に包まれた。そして、私の意識は白い光の中に意識が吸い込まれていった。