こんにちは。今回は「オートガイネフィリア考」の続きとなります。
前回は、「AGとは何か?」についてお話しましたが、今回は、AGの心理面について少し掘り下げてみたいと思います。
まず、AGの心理を考える上で興味深い見方がありますので、それをご紹介したいと思います。80年代の終わりくらいに、上野千鶴子氏は自著『スカートの下の劇場』でこう述べています。
女にとっての性的オブジェは自己の身体
具体的な一つのイメージを思い浮かべますと、鏡ばりの部屋の中に女性が閉じ込められているというシーンを想定してみて下さい。鏡の面になっているところが全部男性の視線だとします。そうすると、鏡自体が男性だから、ここで女性の性的なファンタジーは男性の視線を媒介にしています。
逆に、鏡ばりの部屋の中に男を入れておいて、女性の視線からみるというような逆転の構図が成り立つかというと、そういう形での男性の性的客体化は女性の場合には起きないようです。女性にとっての性的客体というのは、対象の身体ではなくて、自己身体でしかないのです。ですから女性にとっては自己が完全に二重化する。鏡ばりの部屋があって、その部屋の鏡にあたるのは男の視線で、中にいるのは女性という、最初の構図は変わらない。ただ女が今度はぱっちりと目を開けて見ると、相手ではなく鏡の中に自分が映っているというわけです。女性の性的なファンタジーは対象にではなくて、対象化された自己像にあります。女はそれに興奮するのです。
(注:下線は私がいれたものです。)
これは女性の性的対象についての見解なのですが、不思議なほどAGにも当てはまります。私もこれを読んだとき、AGについて述べているのではと錯覚しそうになりました。実はAGの訳語「自己性愛化症候群」が示すとおり、彼ら(彼女ら)が性的客体とするのは女性としての自分自身です。鏡の中の自分に興奮するのはよくある話です。
ここで一つの仮説が成り立つのではないかと思います。すなわち、一般女性とAGの心理においては、同じような現象が起きているのではないか?言い換えれば、少なくとも性的客体をどう捉えるかにおいては、AGと一般女性との間にそれほど差がないのではないか?ということです。
とはいえ共通性があるのは、あくまでも心理面だけです、肉体面では男と女という厳然たる現実があるのです。性転換手術するということを別にすれば、これはLGBTの皆さんが気絶しそうな動かしがたい事実です。
しかし、わたしはこうも考えます。性をメンタル的なもの、心の在り方と再定義すれば、AGと一般女性との間に差が見られないことは不思議ではない、と。
私はイデオロギー的な論争をするつもりは毛頭ありませんが、このような意見に強い違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。実際に、性的マイノリティーに理解がない人の中には、保守を標榜しながら左翼・リベラル思想批判と紐づけて「生物学的性別以外の精神的な性自認を認めるべきではない」とか、「自己申告により性が決定される社会は認められない」という人がいるようです。しかし、このような考え方は、彼らが最も忌み嫌う「唯物論」的な発想であると思います。物質的存在である人と、それに由来する社会規範にしか思い至らないようでは、あまりに発想が硬直化しているというものです。
また、「自称『女性』の迷惑行為を助長するのではないか?」と懸念する人もいるかもしれませんが、それは迷惑行為をする者への規制の立法論の問題であり、心理面での性自認とは話が別だとおもいます。
話をもとに戻しますが、持論を申し上げますと、メンタル面で男女の線引きをするのはとても困難だとおもいます。それは、心理学者ユングがいうように、すべてのの人が心の中に男性性と女性性を持ち合わせているからです。
この、男性性と女性性は固定的にどちらかばかりが出るものではなく、あるときは女性面が、あるときは男性面が顔を出すものだとおもいますが、この男性性と女性性は、肉体の性とは無関係に人によって強弱があり、ある人は、女性であっても男性性優位、ある人は男性であっても女性性優位になり得ます。個人的には、これが性的違和感の真相ではないかと思います。
そして、この男性性・女性性の優位性と肉体的性別の齟齬が容認不能なレベルにまで高まれば、それは性同一性障害になるのだと思います。言い換えれば、AGと性同一性障害は同種の問題であり、違和感の程度により区別されるものではないかということです(もちろん、激しい違和感により日常生活が難しいようであれば、性適合手術や戸籍の変更もやむを得ないと思います)。
以上、今回は、AGの心理面を掘り下げて、さらに性的違和感の一般論について自説をお話させていただきました。
次回は、AGが愛する対象について、自他の区別についてお話したいと思います。