25. 「春陽の頃」 小説『レイト・サマー』第12章(前編)

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 あの夜から三年が過ぎた。

私はリビングの姿見の前に立ち、いつもと同じようにメイクの仕上がりを確認していた。

アイラインの引きかたも上手くなった。リップグロスも上手く塗れている。メイクが上手くいくと気分がいい。

私は鏡に向かってほほ笑んでみた。ショートカットのヘアスタイルもなかなか似合っている。今日も悪くない。

時計は朝の十時十五分を指していた。もう出かける時間だった。私はスーツの黒いジャケットの上に薄いピンクのコートを羽織り、おろしたてのミュールを履いた。今日は襟の大きなブラウスに黒のロングパンツのスーツという格好だ。

私は玄関の扉を開けて家の外に出た。雲一つない青空から降り注ぐうららかな春の陽光が眩しかった。

「あら、桐谷さん。お出かけですか?」と隣の奥さんが掃き掃除の手を止めて私に話しかけてきた。

「あら、こんにちは。今日はちょっとお仕事で」と私は答えた。

「それにしてもいいお天気ね」と奥さんは言った。

「ええ、本当に」と私は言った。

「ねえ、桐谷さん、ところで、明後日だけど、高橋さんや伊藤さん達と一緒にお芝居を見に行こうと思ってるの。せっかくだから、あなたもご一緒にと思うけど、どうかしら?」

「ごめんなさい。明後日はちょっと忙しくて。」

「あら、そうなの。それは残念ね。いいわ、また今度お誘いするわ」

 私は奥さんとの立ち話が済むと、駅の方へ歩き出した。するとすぐに、私のスマートフォンが鳴った。

 電話は私が勤めていた会社の後輩の水沢からだった。私が転職活動中の彼を偶然見つけ、個人事務所のマネージャーにと誘ったのだ。今は彼を名目上の社長ということにしている。

「先生、おはようございます」と彼は言った。

「おはよう、水沢君」と私は歩きながら彼の挨拶に答えた。

「先生、今日のスケジュールは大丈夫でしょうか?」と彼は言った。

「十一時までに荏子田タウンホールに、でしょ?覚えているわよ。私はこれでも物覚えがいいほうよ」と私は言った。

「すみません。今日は大事な講演なんで、念のためにと思って。十一時過ぎから簡単なリハーサルをします。その後、お昼休みを挟んで、講演は一時からになります」と彼は業務連絡を続けた。

「はいはい、わかりました。本日のスケジュールの件、了解いたしました」と私は少しふざけた口調で答えた。

「それじゃ、十一時ですよ。遅れないでくださいね」と彼は念を押した。

「大丈夫よ。今、駅に向かってるところだから。それじゃ、現地でね」と私は答えて電話を切った。

 私は歩みのペースを上げた。内心、出発が少し遅くなったことを後悔した。

 

 私は麻里子と一つになったあの夜の後、すぐに会社を辞め、麻里子の代わりに彼女が生きるべき人生を生きてみることにした。それが彼女と共にあるということだと思ったからだ。私はできるだけ記憶の中の彼女の姿に近づくために、化粧の仕方を覚え、また、女性用の服を着て暮らすようになった。最初は彼女に似ても似つかぬ姿であったが、近頃はようやく板についてきた。私は今の自分の姿がそれなりに綺麗だと思えるようになった。

そして、あの夏の出来事をもとに一編の小説を書いた。最初は個人的な趣味の作品としてブログに細々と載せていたが、すぐに反響が広がり、その物語は大きな出版社から本として世に出ることになった。本は数十万部のベストセラーとなり、ある文学賞で新人賞にも選ばれた。

 文学賞を受賞してからは、私の生活は一変した。様々な雑誌のコラムや連載小説のオファーが舞い込み、今や「売れっ子」と呼ばれる身となった。私は自らがイメージしたものを次々とかたちにしてゆく日々にそれなりの喜びと興奮を覚えていた。

 しかし、新たな暮らしの中で気がかりなことが残っていた。それは、一つになったはずの麻里子のことと夏木親子のことである。

 私はあの山荘で迎えた朝以来、私の前に現れることはなかった。共に生きることを誓ったにもかかわらず、私は麻里子の存在を身近に感じることが出来なくなってしまったのだ。私の心はぽかりと大きな穴が空いたようになっていた。

 私はまた、このことについて相談すべき相手も失っていた。

 あの山荘から帰った後、私はすぐに東京に戻り夏木医師の娘に電話をしてみた。しかし、「この番号は現在使われておりません」と無機質なアナウンスが聞こえるだけであった。夏木医師の田舎の別荘にも連絡してみたが、状況は同じだった。その後も何度か連絡を取ろうとしてみたが、消息は分からないままだった。

 

「先生、こっちですよ」と水沢が講演会場の前で大きく手を振っているのが見えた。

「ごめん、待たせちゃって」と私は彼の方へ小走りで向かった。

私たちは、ホールの職員に出迎えられて、正面玄関から舞台袖の楽屋に通された。楽屋の中は広々としており、十人くらいの役者がメイクや休憩に使うのに十分な程だった。私と水沢は楽屋の中央に置かれた長テーブルのパイプ椅子に座った。

「じゃあ、早速ですが、直前のリハーサルってことで、これから当日の流れを再確認させてください」と水沢は言った。

「いいわよ、そんなの。中学生の英文スピーチ大会じゃあるまいし」と私は彼の申し出を断った。

「えっ、でも人前で講演するの、先生初めてって言ってたじゃないですか。しかも、こんな立派なホールで」

「それはそうだけど、別にどうということはないわよ。私、男だった頃、人前でよくしゃべってたし。それに、聴衆が十人だろうが、千人だろうがやることは同じでしょ?」

「本当にいいんですか?リハなしで」

「ええ、なしで構わないわ。それよりもお昼はまだかしら。ステーキ弁当とかだったら、すごくテンション上がるんだけど?」

「それは、主催団体の日本性多様性研究会の理事長への挨拶が済んでからですよ」

「え~、つまんない」

「『つまんない』じゃありません。駄目ですよ、そんなこと言ったら。人と会うのも作家の大事なお仕事です。家の中でウンウン唸りながら書いてるだけじゃ、今のご時世通用しないんだから」

「はいはい、代表取締役殿。仰せのとおりにいたします」

 私たちは、丁重に主催団体の代表や幹部に挨拶を済ませて、楽屋で早めの昼食を取った。そして、その後は講演が始まるまでそれぞれの自由時間ということにした。とはいえ、水沢には休む間がないようだった。これから始まる講演会の調整はすべて彼に任せており、彼は現場スタッフとの最後の詰めに余念がなかったからだった。私は口には出さないものの、この有能な若きマネージャー密かに感謝していた。

私が彼の働きぶりに感心していると、彼が私に話しかけてきた。「先生、ちょっとすみません。ワイヤレスマイクの電池が切れているみたいなんで、ちょっと近くのコンビニに買いに行ってきます」

「そんなこと、ここのホールの人にやってもらったら?」と私は言った。

「ちょっと係の人が手一杯なようでして。僕がひとっ走りしてきます」と彼は言った。

「あなたって、本当にお人好しね。いいわ。行ってらっしゃい」と私は彼に言った。

 彼は私が言い終わるや否や、ホールの外に向かって駈けて行った。

 楽屋に一人残された私は、講演原稿の最終チェックをすることにした。私は黒革のハンドバックからA4のコピー用紙に打ち出した原稿を取り出した。原稿には色ペンの書き込みがいたるところに散りばめられていた。これらは講演中の私が頼るべき道標になるものであった。私はこれまで何度も原稿を読み直して書き込みを残してきたのであった。先ほどは水沢に対して何も考えていないふりをしていたが、内心はそうでは無かった。本当は逃げ出したい程緊張していたのだった。私は思うところがあって、麻里子になり変わって生きていた。そして、このような私のあり方に理解を示す人々が私に好意の眼差しを向けてくれた。しかし、この新たな世界が私のことを真に受け入れてくれているのかについては自信が持てずにいた。

私は原稿の上で視線を泳がせてみた。しかし、どことなく上の空で、読むことに集中することが出来なかった。私は気分を変えるため、改めて部屋の中を見回した。入口の開け放たれたドア付近には、私の講演を祝う大小様々な楽屋花がところ狭しと並べられていた。私はその色とりどりの祝い花のほうに近づいてみた。花の大半は連載で付き合いのある出版社からのものだった。中には個人的にお世話になった方々の花もあった。福岡の平尾弁護士や、沢木部長からのものもあった。祝福の花を送ってくれたのは、皆、私の大切な人たちばかりであった。

 その中にひとつ見覚えがある名前を見つけた。夏木美香子―あの夏に出会った夏木医師のフルネームだった。

私の目はその名前が書かれたネームプレートに釘付けになった。

「気に入ってくれたかしら?」と背後の誰かが私に話しかけてきた。そこにいたのは夏木医師だった。彼女は三年前の夏と同じように、黒のワンピース着てそこに静かに立っていた。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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