17. 「モノクローム・シティ」 小説『レイト・サマー』第8章(中編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 私は家に帰る気がしなかったので、少し街を歩くことにした。

 夜が始まろうとするとする街の喧騒の中で、行き交う人たちがそれぞれの理由でそれぞれのなすべきことをしていた。家路を急ぐ人々、宴を前にして仲間と談笑しながら意気揚々と歩く人々、神妙な顔持ちで電話と話す人々。これらの見慣れた風景が私にはどこか遠い国のそれのように思えた。まるで、自分が透明になってこの世界から浮遊し、空中からそれらを俯瞰しているような気分がした。私もこの世界に属していることがまるで嘘のように思えた。

 人並みを避けながら、私はしばらく通りを彷徨った。そして、老人が「世界」について言っていたことを思い返した。

なぜ、彼はこの争いと矛盾に満ちた「世界」を創造する必要があったのだろうか?そして、なぜ、この「世界」に住む矮小な存在にすぎない私を消そうとしてまでこの無様な成り立ちの「世界」を守ろうとするのか?彼の言っていたことには「なぜ?」が見事に欠落していた。

私は自分なりにその理由を推測してみた。

もしかすると、醜い「世界」を意図して作っているのではなく、それしか作れないというのが真実なのではないか、と思った。すなわち、それが彼の力の限界なのであった。そして、本心では、彼はこの自分の理想とは似ても似つかない作品とそのようなものしか作り出せない自分自身を忌み嫌っているのかもしれなかった。また、この「世界」を拒絶することはそのような彼に対する許しがたい冒涜にあたるのかもしれなかった。それが、私のような「危険な不適合者」の存在を容認できない理由なのかもしれないと思った。

しかし、私は彼に許してもらおうとは思わなかった。創造主の作った「世界」の取るに足らない住人に過ぎない私にも、どのようなかたちであれ、そこに存在する正当な権利があり、創造主にもそれを認める義務があるように思えたからだ。何人も、「ある」ものを「ない」ということは何人もできないのだ。私が創造主なら少なくともそうはしない、私はそう思った。

ん、私が創造主?

そのようなこと考えながら歩いているうちに、私は見覚えのある一角にたどり着いていた。そこに一軒のバーが看板を掲げていた。バー「メイデン・ボイジ」。以前、ガールフレンドと来たことのある店だった。宵の口にまだ残る暑さに喉が渇いていた私はここで一休みすることにした。

店内はこの前と変わらないアンティーク物の調度品に囲まれた落ち着いた雰囲気だった。まだ、時間が早いせいか、客はまだ誰も居なかった。

「いらっしゃいませ」と礼儀正しいマスターが入ってきた私を出迎えた。

「ビールをくれる?それと何か簡単に食べられるものを」と私はカウンターに腰かけながら注文した。

マスターは早速よく冷えたグラスにビールを注いで私のもとに差し出した。私はその泡の整ったビールを一気に喉に流し込んだ。

「今日も暑かったですね、夏ももう終わりだというのに」とマスターは言った。

「そうだね」と私は短く答えた。そして、ウィスキーのロックを頼んだ。

 マスターは慣れた手つきで氷を割り、すぐにウィスキー注いで私の前に差し出した。私はそれをまた喉の奥に押し込んだ。胃に流れたアルコールがじわりと血管に染み出し、私の体内を巡った。そして酔いが私のこわばった意識を少しずつ溶かしていった。

「何かお好きな音楽でも流しましょうか?」とマスターは言った。

「ジャズじゃなくても構わない?」と私は尋ねた。

「ええ、何でもどうぞ」とマスターは答えた。

私は最初に心に浮かんだ曲を頼んだ。間もなく、フィリー・ソウルの甘いオーケストレーションの音が部屋を満たした。ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの『I MISS YOU』という曲だった。寄せては返す夏の終わりのさざ波を表現したようなドラマチックな曲の展開に、リード・ボーカルのテディ・ペンダーグラスの野太く深みのある声が畳みかけた。

 曲は、天の啓示のような素晴らしい響きであるにもかかわらず、歌詞は実に他愛もなかった。女に捨てられた男が酒をあおりながら、ただ、悲しいと泣き言を言うという内容だった。

それにしても、悲しいとはどういう感情なのだろうか、と思った。私は、今、悲しんでいるのだろうか?それすら分らなかった。私の心はすでに石のように硬くなり、涙は枯れ果ててしまったかのように思えた。

 音楽を聴きながら、また一杯、また一杯、と私は杯を重ねていった。私は、酒は嫌いではない。しかし、これほどまでに飲むのは初めてだった。私は夢とも現ともつかないところで漂いながら、この夏のことを思い返していた。そして、私の回想は自然に麻里子とのことへたどり着いた。

 

 それは、麻里子とともに過ごしたある夜のことだった。

 私たちはいつもの濃厚な愛の儀式の後、抱き合いながらその余韻を楽しんでいた。私たちはベッドで横になり、お互いの顔を見つめながら、まだ消えぬ胸の切なさを感じていた。

私が少し上体を起こして彼女の胸元から乳のあたりを優しく撫でようとしたとき、彼女の首元に光るものを見つけた。それは彼女が着けていた銀色のネックレスだった。それは細密な鎖の中央に、大小二つの可憐なハートを吊り下げていた。ハートの一方は甘く鈍い金属の反射光を放ち、もう一方は細い縁だけのハートであった。それは彼女の優美な胸元を高貴に飾っていた。

「麻里子。これは?」と私は彼女のネックレスについて聞いてみた。

「これは私が大切にしてきたものよ。今日は特別に着けてみたの。似合う?」

「ああ、とても。でも、どうして今日はそれを?」

「私、今日、あなたがここに来る前に嫌なことを考えてしまったの」

「嫌なことって?」

「あなたが私の前から居なくなってしまうことよ」

 彼女への親密な思いが日ごとに増していた私にとって、それは少し心外だった。この時の私には彼女のもとを去ることなど全く想像もしていなかった。

「僕は君から離れられなくなってしまった。君の前なら僕が居なくなるなんて、今は考えられないよ」と私は彼女に言った。

 彼女はおもむろに体を起こし、身に着けていたネックレスを外した。そして、私の首元にそれを付けた。

「これは君の大切なものだろ?」と私は言った。

「いいの」と彼女は答えた。そして、私の体を優しく抱きしめた。

「おまじないよ」

「おまじないって?」

「万が一、あなたがどこかに行ってしまっても、また私のことを思い出して必ず戻ってくるようによ。もう嫌なの、ひとりになるのは。もうどこにも行かないで」

 彼女はいっそう強く私の柔らかな体を抱いた。そのとき私は彼女が臆病な子猫のように愛おしく思えた。

 私たちはその夜、お互いのぬくもりをいつまでも感じていた。

 

彼女の予感は正しかった。私は彼女の思いを受け止めきれずに、それを拒絶してしまった。その結果、彼女を失ってしまった。そして、彼女を取り戻す旅も止めて、孤独の荒野に一人戻ってきたのだった。しかし、こうなるのは必然だと思った。それでよかったのだ。ここが私にとって終着の場所だったのだ。もはや、なすべきことをすべてなし、見るべきものはすべて見た。もうどこにも行かない。これは私の意思なのだ。あと何十年生きるかわからないが、ここでこのまま死んでゆくのが私にはふさわしいと思った。

 気が付けば、目の前のグラスが滲んで見える。間接照明の光がシャンデリアのそれのように散乱している。知らず知らずのうちに、瞳から涙があふれてきたようだった。

涙の理由は自分でもわからなかった。この夏の出来事はすでに過去のものに過ぎないはずだった。私にとって今ある現実がすべてであるはずだった。過去への感傷とは無縁であるべきだった。私は決して泣くべきではなかった。泣いてはならなかった。なのに、涙が止まらなかった。本当のことを言えば、もう一度、麻里子と結ばれたかった。少し変わったかたちではあったが、私たちのこれ以上ない関係であった。彼女は私であり、私は彼女であるのだ。我々はずっと一体でいるべきだったのかもしれない。しかし、私は決めたのだ。彼女にはもう会わない。老人が言ったように、我々が会えば新たな世界を創造し、そのことによって、この「世界」が朝露のように消えてなくなるかもしれない。だが、住み慣れたこの『世界』が無くなるのは私が望むところではなかった。だから、私は私の流儀でこの「世界」に属するものたちのささやかな暮らしを守らなければならなかった。それが、この私に課せられた運命なのだった。

私はここ数ヶ月の不思議な出来事のすべてを忘れ去るために、さらに酒を飲んだ。次第に酔いが深くなり、霧が濃くなるように意識が混濁としてきた。

 私は静かな眠りに落ちていった。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です