16. 「帰還」 小説『レイト・サマー』第8章(前編)-あるオートガイネフィリアの物語-

 

 老人のボディーガードは無言のまま、施設の玄関まで私を導いた。そして、すぐさま主のもとに帰っていった。

 私は玄関に一人取り残された。いつまでもここにいても仕方がなかった。私は外に出ることにした。

自動ドアを出ると広い車寄せがあり、空港のように車が何台も横付けできるようになっていた。建物の外に出た私は敷地の外門へ足を向けた。

 青々と茂った木々が夏の昼下がり陽気に照らされていた。しかし、日差しの強さのわりには空気がひんやりとしていた。この場所がかなり標高の高い場所であるらしかった。

先ほど私が出てきた建物は、昨晩我々が来たのとは別の出入り口のようだった。振り返って見た外観はどこかの近代美術館のような洗練された形をした白い建物だった。やや深みを増した晩夏の青空にその純白の姿が映えていた。この地下にあの異様な場所があるとは誰も想像できないに違いなかった。

 私はここで夏木医師の娘のことを思い出した。老人の言葉が確かならば、彼女も解放されているはずだった。しかし、ここに出るまでに彼女を見つけることができなかった。ここで私のことを待ってはいないだろうかと思い、私は辺りを見回してみたが、人影らしいものは見当たらなかった。

 彼女のことを心配していると、一台の黒塗りのレクサスが近づいてきて、私の目の前に止まった。

 運転席のウインドウが開き、見覚えのある顔が出てきた。顎鬚だった。

「家まで送るよ。後部座席に乗ってくれ」と彼は言った。

 彼の表情には、これまでの威圧的で人を見下したような表情はなかった。それに、こんな山奥では、バス停を探そうにも右も左もわからなかった。私は彼の車に乗ることにした。

 後部座席に乗ると、そこには、すでに女の子が乗っていた。金崎博士の死をすでに知っているのか、悲しそうにうなだれて黙っていた。

 私が乗り込むと、車は静かに動き出し、外門をくぐり、組織の施設を後にした。

 車内は重い沈黙で満たされていた。

 私は横に座っている女の子を一瞥した。彼女はその大きな瞳を涙で濡らし、指を噛みながら声を上げまいとしていた。

 私は女の子に何か声をかけようと思ったが、すぐにそれを思いとどまった。ここで何を言っても上っ面な慰めにしかならないと思ったからであった。私にとって、博士の死は初対面の研究者が突然命を奪われたという事実以上の意味はなかった。たしかに、人の死に直面したという、誰もが感じるいたたまれなさはあったが、それ以外の感傷はなかった。それは彼が私に不思議な予言をしたとしてもそれに変わりはなかった。他方、女の子の心の中には彼との無数の思い出に満たされていたに違いなかった。もちろん、それを私は窺い知ることはできなかった。知ることができない以上、彼女の悲しみを理解することは私にはできなかったし、それを理解する資格すらなかった。大切な存在を失った悲しみは、他の誰かが受け止めることはできないのだ。

 私は彼女をそっとしてあげるほかなかった。

 車は木々の茂る山を下り、麓のインターチェンジから高速道路に入った。車がスピードを上げてトラックや大型バスを追い抜いていった。車窓には、やや衰えた夏の日差しを受けた車たちの列と道路標識や防音壁などが作る無機質な風景が流れていた。

後部座席でとりわけやることのなかった私は、一人静かに目をつぶり、昨日から今までのことを思い返した。

 麻里子への思いの告白、夏木医師の予言、危険な場所への突然の旅立ち、そこからの脱出、そこでの金崎博士との出会い、老人との対峙。このすべては昨日の夜から先ほどまでに私が経験したことであるが、私にはそれが遠い昔のように思えた。そして、それを経験する前の自分と、今の自分とがうまく繋がらない感じがした。端的に言えば、私自身が変わってしまったような気がした。おそらく、老人の前で屈服しながら自らの願いを放棄して、かつての私は失われてしまったのだ。私は大切なものを求めて旅に出たにもかかわらず、自らの意思で船を降りてしまったのだ。また、その決断をした私自身も半ば損なわれてしまったのだ。

 変わり果てた私は、もう人らしい思いはもはや何も感じることはできないであろうと思った。悲しさも、喜びも、怒りも、愛おしさも。過去の私が失われてしまったことにより、私はそれらから隔絶されてしまった。しかし、それらを失った感傷に浸ることすら私には許されないように思えた。こうなってしまったのは他の誰のせいでもなく、他ならぬ私自身の責任なのだ。いわば、私は自らの半分を殺してしまったのだ。そのような私にできることは、もはや、思い出の残像を懐かしみながら、色彩を失ったこの『世界』の片隅で、ひっそりと残りの人生を過ごすことだけだった。

 

数時間後、気がつくと、車窓には赤い西日に照らされた高層ビルが増えてきた。どうやら車は東京に近づいて来たらしかった。

「頭はまだ痛むか?」と顎鬚が沈黙を破るように言った。

「少しね」と私は答えた。

「俺は昔から髪が無くてな。この禿げ頭のことを言われると見境が無くなっちまうんだ。悪かったな」と顎鬚は言った。

「もういいんだ。あの後、あんた以上に癖のある奴と会って、頭の痛みなんて忘れてたよ」と私は言った。

「総裁のことか。まあ、それもそうだな」と顎鬚は笑いながら言った。

 ここで、私は夏木医師の消息が気になった。

「ところで、夏木先生はどうしている?」と私は顎鬚に聞いてみた。

「彼女なら無事だ。我々の別動隊が都内の施設に軟禁していたんだが、もうすでに開放したよ。正直に言うと、あの女はいろいろとうるさくて、こっちも辟易としているよ。もうあんな面倒な女を軟禁するのは、上の命令でも金輪際、御免蒙ると言いたいところだ」と顎鬚は顔をしかめながら言った。

「いろいろとうるさいって?」と私は顎鬚に更に聞いてみた。

「万事にうるさいってことだよ。やれ、枕が硬くて眠れないだとか、こんな肉ばかりの脂っこい食事は食えないだとか、部屋の間接照明が気に入らないとか、着替えは絹の下着でなきゃだめだとか。自分のことをお姫様か何かと勘違いしてやがる」と顎鬚は愚痴をこぼした。

「元気そうで何よりだ。安心したよ」と私は言った。

「まあ、あんたたちの件はもう終わりだ」と顎鬚は言った。そして、ため息をつきながら続けた。「まあ、この仕事が終われば、俺たちも長くはないだろうがな」

「それは、どういう意味?」と私は彼に尋ねた。

「俺たちは、一応、例の開発プロジェクトの専属ということになっていた。プロジェクトが終了ということは俺たちが用済みってことだ」と顎鬚は答えた。「そして、問題なのは、俺たちはあまりにも組織の秘密を知りすぎているってことだ。あんた、総裁に会っただろう?あいつの性格からして、そのまま無事にお役御免とならないのは分るよな。多分、俺たちも命を狙われる側になる」

「あんたらもか?」と私は言って絶句した。

「ああ、間違いない。きっと総裁は俺たちを消しにかかるさ。俺は傭兵としていくつも戦場を渡り歩いてきたが、あんな残忍な奴は見たことがない。人殺しなんて屁とも思っちゃいないさ」

「あんたら裏事師は重宝がられてるんじゃないのか?」

「いいや、俺たちの替わりなんていくらでもいる。あいつはその筋のスカウトには長けているんだ。替わりの連中は、俺たちみたいに洒落はきかねえぞ。まあ、気を付けな」

「気を付けなきゃいけないのは、あんたらもだよ」

「そうだな、そいつは違いねえ。まあ、俺は絶対に生き残る自信があるがな。アフガンでもイラクでも生き残ったんだ。なあに、今度も何とかするさ」

「多分そう言うと思った。あんたは、殺しても死ななそうだからな」

「そうよ。こう見えても、おれは不死身のヒーローさ」

 私と顎鬚は思わず声を上げて笑った。

「ところで、あんた、これからどうする?」と顎鬚は私に尋ねた。

「どうするって?もとの退屈な生活に戻るだけだよ」と私は顎鬚に答えた。

「夏木と出会う前のか?」と顎鬚は再び尋ねた。

「ああ、そうさ」と私は答えた。

 私はそうせざるを得なかった。私が何をしたというわけではないが、自分の存在のせいで死人まで出てしまった。もう自分のことで誰かを巻き込みたくはなかった。私は夏木親子や麻里子と出会う前の生活に戻らねばならなかった。退屈だが、静かな私の世界。その中でただ静かに生きる。これが私に残された責務のようにも思えた。

 しかし、なぜ顎鬚がそんなことを聞くのか少し気になった。

「でも、どうして僕のこれからの身の振り方なんて聞くんだい?」と私は顎鬚に尋ねてみた。

「あんたが明日にでも死にそうな顔してるからさ。いわゆる死相ってやつだよ」と顎鬚は答えた。

「えっ」と私は驚きの声を上げた。意外だった。

「俺はな、余りにも多くの死を見てきたせいか、なんとなく分るんだよ。あんた、今、死ぬことを考えてるな?」と顎鬚は言った。

「何を馬鹿な」と私が言ったところで言葉に詰まった。

「頭では否定していても、あんたの本音の部分はそうなんだよ。何があったか知らねえが、死ぬのはつまらねえぜ。人間生きてこそ華だ。そうは思わねえか?それでも死にてえと思うなら、死ぬ前に一つ派手なことをやっちまいなよ。あんたも何かあるんだろう?そう言うの」と顎鬚は言った。

 私もできることならそうしたかった。なりふり構わず麻里子のもとへ飛んでいきたかった。そして、甘い抱擁に溺れてしまいたかった。しかし、そんなことは私には無理だった。麻里子の世界に旅立つことは、代償としてこの『世界』を失ってしまうことを意味していた。私にはまだ失ってはならないように思えた。私はまだ、そのような取引に応じることはできなかった。

「ご忠告だけは、ありがたく受け取っておくよ」と私は顎鬚に答えた。このように答えるのが私には精一杯だった。

「そうか、まあ、あんたらしい答えだな」と顎鬚は言った。

車窓には、夕日を照らして赤く輝くビルがひしめきあっていた。間もなく、車は高速道路を降り都会の街並みへと潜って行った。

やがて、車は夕闇の迫る新宿駅の近くに止まった。一日離れていただけにもかかわらず、都会のガード下の轟音と雑踏の音がひどく懐かしく思えた。

「着いたぞ」と顎鬚は到着を告げた。

 私は女の子を一時的に引き受けなければと思った。

「ここで降りようか?」と私は女の子に声を掛けた。

 女の子は、かぶりを左右に振り、私と共に降りることを拒絶した。今はそのような気分ではないということだった。

「安心しろ。娘は母親が待つホテルまで責任をもって送る。こう見えても俺は職務に忠実だからな」と顎鬚は言った。

 私は顎鬚の言葉を信用してもいいと思った。彼は自らの仕事にプライドを持っていたからだ。

「わかった。彼女のことは任せた」と私は言った。

「もう、あんたと会うことはないと思うが、元気でな」と顎鬚は私に別れを告げた。

「ああ、あんたもな」と私は短く応じて車を降りた。そして、私はテールランプの波に飲まれていく車を見送った。

クロスドレッサー、自己探求家。 趣味で小説も書いています。 最近は、仏教と現代物理学の関連について研究しています。

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