みなさん、こんにちは。今回は私のAG論の4回目です。
前回は、AGあるいは女性一般における性指向の自他の問題を考えてみましたが、今回は自己と(分身としての自己を含む)他者の差分についてさらに掘り下げてみたいと思います。
「自己と他者の差分」と書きましたが、わかりやすくいえば、「差分」を詰める欲求が「変身願望」ということになるかと思います。なぜ、変身願望についてお話しするかというと、前回のお話しだけでは、自他の問題を十分に説明するのは難しいと考えるからです。
前回は、自己と他者がほとんどイコールの場合の話でして、自他に相当な違いがある場合は差分を縮めるムーブメントを加味して更に考える必要があると思います。例えるなら、アインシュタインの相対性理論に例えるならば、前回は重力の影響を考慮しない「特殊相対性理論」で、今回が重力を考慮した「一般相対性理論」のようなものです。
ところで、AGというか女装家一般でいえることですが、私たちは変身願望の塊のようなものです。女装するときには、必ずと言っていいほど、「なりたい女性」をモデリングします。「女優の〜さんみたいに」という感じに。それが上手くいったり、行かなかったりするわけですが、上手く行ったパターンが蓄積されて少しずつ理想の自分像が作られていきます(私の場合、意図したモデリングが上手くいかず、むしろ成り行きの結果が綺麗だったので自分の中でパターン化したということが多いです)。
女装家で最初から自分の「仕上がり」に満足できる人は少ないのではないかと思います。ある適度、最初から綺麗に仕上がった人でも「もっと綺麗にないたい」という思いを持つのが普通です。前回の言い方でいえば、現在の鏡の中にいる自己の「分身」に満足できないのであれば、自己(=分身)を更に磨こうとするというわけです。
女装を例えに出せば少し特殊な感じがしますが、これは男女問わず全ての人にとって普通に観られることです。例えば、春先のファッションのコーディネイトを考えるというような場合は、それを着こなす理想の自分をイメージするわけで、理想の自分像をモデリングすることは特に変わったことではないと思います。
この差分を埋める行為は、自分自身を理想の自分に近づけることであるといえますが、この行為は私にとって、まるでギリシアの哲学者、プラトンの「イデア論」のように思えます。理想の自分像が「イデア」だとすれば、それに近づく試行錯誤への思いが「エロース」というように。
ところで、私が高校生の頃の話になりますが、学校の国語の授業で「Like」と「Love」の違いについての論説を読んだことがあります(作者については覚えていません。ごめんなさい)。そこでは、「Like」とは同質なものへの「好き」という思いで、「Love」とは異質なものへの「愛」ということを述べられていました。「イデア」へ向かう「エロース」とはまさにこの「愛」のことで、本来は「好き」という程度の思いでは、いつまでも理想に近づくことができず、「愛する」という次元を超えるようなボルテージの高い思いが必要ということなのだと思います。
真の女装家は求道者のようでもあります。彼ら(彼女ら)の追及には果てはありません。
今回は、本来意図していた筋からは少し話が逸れましたが、前回の補足として、理想の自己に近づく行為についてお話しさせていただきました。
次回は、自他の問題に立ち戻り、自己の分身として客体化した自己という他者のうちに見るものは何か、ということについてお話ししてみたいと思います。